吉野源三郎「人間の悩みとあやまち」
教科書には「人間の悩みとあやまち」というタイトルで記載されているが、近頃、漫画化や映画化もされ再流行している「君たちはどう生きるか」からの抜粋である。以前は一つの題目として習っていたが、数年前の教科書の改変により、「読書室」という名の鑑賞用教材として取り扱われるようになった。
「人間の悩みとあやまち」の部分は、コペル君が友達を裏切ってしまい自責の念にかられているときに、叔父さんがコペル君のノートに書いた部分である。
私がこれを中学生の時に習った感想は、「なんだこの教養くさい文章は…。」というあまり良いものではなかった。なぜならいきなり、この部分だけを習ったからである。前ふりもなく、生きているうえで「心の痛み」はつきものだと説かれ、「ぼくたちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということ、しっかりと心にとらえることができる。」と続く。当時、中学生であった私にも悩みはあり、心が痛むことは多かった。自分に自信が持てず、どう生きていいか迷っていた時期である。実際に「心の痛み」を持っている時期の私からすれば、「何を知った風なことを書いて…」という風にしか捉えることができなかった。
「君たちはどう生きるか」という本も、その時に紹介されたとは思うが、題名からしてなにやら人生教訓くさい本だと思い毛嫌いしていた。古い本だというのもあって、昔の本に自分の生き方を説かれてたまるか、と思っていた。(若かった…。)
その後、よく先生たちからも紹介され、良い本だという話はきいていたが、結局、全文を読んだのは教師になってこの題目を教えることになってからである。もちろん、最初は乗り気ではなかった。「この作品おもしろくなかった…」という中学生からの印象が強かった。けれども教える側の人間として、せめて全文は読むべきだろうと、図書室で借りて読んだ。
読み始めてとても驚いた。そもそも「主人公」がいることに驚いた。教科書で習ったような教訓臭い話が章ごとに続いていると思っていたのだ。そして彼があだ名の「コペル君」と呼ばれていることに驚いた。「なんだ、その素敵なあだ名は!」と感動した。親しみやすく、それでいて学問に通じている良いあだ名だと思った。また、彼がいたって普通の少年であり、私達が疑問に思ったり、悩んだりしたことを悩んでいるのも親しみが持てたし、それに対する叔父のノートによる教訓的な助言も自然に入ってきた。(普通といっても彼と彼の友人たちがいわゆる富裕層であることには注意をむけたい。)
軍国主義が高まり、第二次世界大戦に向かおうという日本で、このような教訓的なだけでなく、一人の少年の物語としてもおもしろい作品が生まれたことに驚いた。逆に、なぜこれほどの作品を生み出して、これを名著として紹介しつづけ、現代に再評価を行っている、日本の現状がこうなるのか、と疑問に思った。政治家たちは汚職問題を報道され、いたるところで、利益のために「改ざん」が行われ、無差別な殺人事件や不正は後を絶たない。
当然、それが全くなくなることは無理だとは解っているが、自殺者年間3万人や、過労死などと聞くと、せめてもう少し良い社会ができあがってもよいのではないのか、と疑ってしまう。
非常に疑問に思った私は、コペル君が叔父さんにしたように、私よりも読書家である母にこの質問を尋ねたことがある。母の答えはこうだった。
「良いことを《言う》だけなら誰にでもできる。私でもできる。」
その答えには「なるほど、私でもできる。」と納得した。本を読んで感動し、その本に書かれたことを言うだけなら誰にでもできる。しかし、実際に行動してそれを継続していくのは果てしない苦労を伴う。一体どれだけの人が自分の利益の前に、自分とは関係のない他人の貧困に心を痛め行動しているだろうか。(現代はそれ以前に搾取が巧妙に隠されていて、貧困や弱者を直視するのが難しくなって、心を痛める機会が無いのも問題のひとつだ。)
先日「小説の神様」の感想でも書いたが、読者として、教師としての姿勢を問われる問題であるだろう。文学が机上の空論になってしまわないように、現実をしっかり把握して、自分の「心の痛み」にしっかり向き合っていきたいものだ。(本当に言うだけなら簡単だ。)
ところで、私が持っていた「君たちはどう生きるか」は生徒に2年前に貸してまだ返ってきていない。続けて催促をしつつも、このまま返ってこないなら新装版を購入する良い機会になるな、とも思っている。
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