夏目漱石「坊ちゃん」③ 

夏目漱石「坊ちゃん」

夏目漱石「坊ちゃん」③

 

「坊ちゃんと手紙」

 

2年前だったと思うが、「坊ちゃん」を習い終えたあと、生徒たちが内容をどれだけ把握したかを知りたかったのと、「書く」能力を高めるために、「坊ちゃんから清へ」というタイトルで手紙を書かせたことがある。これは私が考えたのではなく、インターネット上で参考にした授業方法だ。(どのサイトだったか記憶にありません。見つかり次第リンクを貼ろうと思います。)

坊ちゃんが松山へと出発するのを見送った後、清が甥の家へ帰ったときに、実は坊ちゃんが清に宛てて置き手紙をしていたという設定で書かせる。おもしろそうだ、と深く考えずに生徒に書かせてみた。

大体の生徒たちが「清、今までありがとう。」「素直になれなかったけど、清には感謝している。」「清は心のよりどころだった。」などと、清を大事に思う坊ちゃんの心情を書いていた。私は最初、生徒たちが坊ちゃんの感情をちゃんと解っていることに満足していたが、一人の宿題を嫌がった男子生徒がこう言ったのだ。

「坊ちゃんは清に手紙なんか書きません。」

私はハッとした。坊ちゃんの性格をしっかり把握しているなら、坊ちゃんからは「書かない」のがこの宿題の正解である。自分が松山に行くからといって、置き手紙をして清を喜ばせるようなロマンチストではない。(ということは、宿題をしてこなかった生徒を最高評価とすべきなのかもしれない…。これに迷った私は、もうこの課題を出していない。)

その後の原作でも坊ちゃんからは清に手紙を書くが、それは初めて下宿につき、慣れない土地で清の夢をみた次の日の昼食後だ。教科書に載っていない部分だが、引用する。

 

昼飯を食ってから早速清へ手紙をかいてやった。おれは文章がまずい上に字を知らないから手紙を書くのが大嫌いだ。またやる所もない。しかし清は心配しているだろう。難船して死にやしないかなどと思っちゃ困るから、奮発して長いのを書いてやった。その文句はこうである。

「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。さようなら」

 

「手紙を書くのが大嫌い」と言っておきながら、「やる所もない」「清は心配している」という理屈をこねながら手紙を書く。回りくどいが、手紙を書いた理由は読者からすれば明白だ。慣れない土地、初めての仕事、寝るときにみた「清」の夢…。坊ちゃんがホームシックにかかって心細くなったからこの手紙は書かれた。そして手紙が嫌いと言いながらも、「今にいろいろな事を書いてやる」というのも、清と手紙だけでも繋がっていたい、という気持ちの表れではないだろうか。

ところで、坊ちゃんは清をわざと喜ばせるようなロマンチストではないが、この手紙が清を喜ばせることにはしっかり自信を持っている。すぐに返事が返ってくると思っていたのに、なかなか返ってこないのでそわそわしている様子はほほえましい。やっと来た返事を読む場面は、とても印象的だ。引用する。

 

おれはせっかちな性分だから、こんな長くて、わかりにくい手紙は五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりはまじめになって、はじめからしまいまで読み通した。読み通したことは事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくくなったから、とうとう椽鼻へ出て腰をかけながらていねいに拝見した。すると初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向こうの生垣まで飛んで行きそうだ。

 

「椽鼻」とは「えんばな」と読み、「縁側の端」を意味する。坊ちゃんは初秋の涼しい夕闇のなかで風に吹かれながら縁側で手紙を何度も繰り返し読む。清が必死に書いたつたない手紙を揺らす風が坊ちゃんの心まで揺らしているようだ。けれども「おれはそんなことにはかまっていられない。」と間髪入れずに続く。そして坊ちゃんはまた手紙の内容をむさぼるように読んでいく。下宿のおばあさんが晩飯を持って来たときには、まだ読んでいたのか、ずいぶん長い手紙なんだな、と言われる。それに坊ちゃんは、

「ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳についた。」

 

坊ちゃんは清の愛情をしっかり理解している。そして離れている今、自分が心細いことも、清が心配なことも、ちゃんと理解している。そのような心の揺れは、坊ちゃんにとって、清からの愛情を受け取っている証拠になっている。だから坊ちゃんはそれをしっかり刻み付けるように、風に吹かれながら、いつ手紙が飛んでもおかしくないような不安定な状態で手紙を読み返す。その坊ちゃんの「不安定さ」は愛情を与えてくれた清にしか生み出せない感情だからだ。そしてどんなに風が強くても坊ちゃんが清の手紙を手放すことはない。

言語上でみると、「大事な手紙」だと珍しくストレートに言っているようだが、すぐに「自分でも要領を得ない」と否定するのが、坊ちゃんらしい。

その後も清は坊ちゃんの心の支えとなり、孤独な二人の信頼関係は最後まで続く。作品の最後ももちろん「清」でしめくくられるが、ネタバレになってしまうので、そこまでは書かないことにする。

 

これにて、「坊ちゃん」について書くのは終わります。次回は番外編で正岡子規のある短歌について書きたいと思います。

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