茨木のり子「自分の感受性くらい」①

茨木のり子「自分の感受性くらい」

茨木のり子「自分の感受性くらい」①

「他人を批判するということ」

 茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」は中学二年生の三学期に習う。生徒たちは最後の「ばかものよ」というフレーズが印象に残っているらしく、上の学年にいっても「ばかものよ」の詩、と言えば大抵が「ああ!」と思い出す。

 私はこの詩をちゃんと読んだのは大学生の頃だったと思う。この「ばかものよ」は一見辛辣な言葉だが、そこには愛情が込められている、という風に習ったのが印象的だ。私は、その「愛情」とは、作者自身が自分も「弱い人間」だと痛感しているからこそ、自分への決意も込めて、同じように「弱い人間」たちに激励をこめて放った言葉がからだ、と思っている。簡単にいうと、作者から読者に「一緒にがんばろう」というメッセージがこの詩には込められている。

 この作品はまず「自分の弱さ」を一つ一つ指摘して批判する。他人のせいにして、社会のせいにして、自分にできないことを正当化している「わたくし」。なにもかも下手で、だからといって上手くなる努力もせず怠って、できないことを他人のせいにして、不機嫌に怒って…。どうしようもできない現状を招いたのは「自分」の責任だと指摘する。

 悲しいことにこの指摘は全くその通りだと納得せざるを得ない。その理由として、一つは読み手が強がって反論も言えないぐらいの力強さで書かれているからだろう。「~するな」という命令形や、「わたくし」などの体言止めがその効果を出している。

しかし、それだけでは中学二年生がこの作品に反発を示さない理由としては弱い。反抗期真っただ中で、腹がたてば友達のせいにして、陰口をたたきあう、そんな生徒たちがすんなり納得するのである。これはなかなかすごいことだ。大人でも変に教訓臭い詩というのは読んでいて心の中で反発が起きる。「私の何を知ってこんなことをいうのか!」と怒りがこみあげてくる。しかし、この詩を読んでもそんなことははい。

 なぜこのようにすんなり入ってくるのか、第二の理由として、それはやはり作品と作者が「弱さ」を「隠そう」としていないからだろう。弱さは自前のものとして、当たり前のものとして、読み手の前に並べられる。生徒たちも私も、怠け者で他人のせいにする自分は「悪い者」だと思っている。そしてそれは実際に「悪」ではあるのだが、「悪」だからこそ隠そうとする。無意識のうちにもともと「無い」ような顔をする。目を逸らして気づかないふりをする。だからこそ「他人のせい」にしていることが多い。

 生徒たちも大人たちにも、この詩のようにまず人間の弱さが「存在する」ことを指摘したうえで、「駄目だ」と再度指摘する過程が必要なのだと思う。「他人のせい」にしている事実をしっかり見つめなおさせることで、次の指摘、批判がすんなり入るのだろう。大抵、生徒たちは「駄目なことは駄目だ」と認識している。逆に「他人のせい」にしているときはそれに気が付かず改めようとはしない。「つまらない」「わかってくれない」「私は悪くありません」。生徒たちがよく言うことだが、本当にそうなのか?「自分」は何をして、何をしなかったのか、ちゃんと一つ一つ指摘することで、自分を振り返る機会になれば、と思う。(大人も本質的には思っていることは一緒で言えるかどうかの違いなのだが…)

 そして、詩の中だけでなく、「指摘し、批判する」ことは誰にでも勇気が必要なことだ。他人を傷つけ、自分が嫌われる覚悟が必要だ。そしてまたその批判は自分にも返ってくる。「じゃあ、そういう言うあなたはできているの?」と。強烈な批判をしているこの詩はもちろん作者にも返ってくる。ここでこの詩が上手いな、と思う点は「わたくし」という言葉を使っていることだ。「なにもかも下手だったのはわたくし」だとつづられる。この「わたくし」とは読者からすれば読者であり、作者からすれば作者である。そして「わたし」でなく、「わたくし」と書くことで不特定多数の「個人」を指す言葉にもなっていると捉えられる。(誰もが持っている「公」の反対語として「私(わたくし)」のようなニュアンスだろうか。)

 だから読者に読み手である「一人」を批判しているという怖い気持ちを与えない。読んだ後、読者は批判された後悔で心細くなったり、いらだったりしない。大抵、批判をするときは「教師が生徒を」と、一方的になりがちだ。だから生徒たちは「私一人が批判された」と苛立ち不安になる。自分だけが劣っているような、周りから嫌われたような…。しかし、この詩は読者と作者、お互いが非を認めながら進んで行く。きっとこういう部分もすんなり入る要因になっているのだろう。(羨ましい。)

そして、「自分の感受性くらい自分で守れ」というのは、命令形ではあるが、弱い人間(作者と読者)に対する激励でもあり、また作者自身の決意ともなる。作者は自分の弱さを認めながらも、それでも守り切りたい「自分」(作者)を発見し、守っていけると自分を信じ、この決意を書いた。それはそのまま「他人」(読者)への信頼に繋がる。弱さだけでなく、それを認め、克服しよう、とする気持ちも、作者だけが持っているものではない。同じように誰もが、弱さに流されずに、自分の本当の心を大切に守っていこう、と思っていること。そしてそれは絶対に誰にだって可能だ、ということを信じているから書けるのだ。

 そして最後に「ばかものよ」という言葉が出てくる。「ばか」は一方的にいえば暴言の部類に入るのだろうが、前述したとおり作者自身に向けられた言葉でもある。作者が言い方としては上からだが、立場としては読者と同じレベルで「ばかものよ」と言う。上述したようにお互いが「ばか」と認め合っているということはお互いにとって心強い。

そしてまたここで注目したいのが間投助詞の「よ」である。「よ」には様々な意味で使われるが、ここでは「よびかけ」の意味で使われている。「蝶よ、花よ」や、曲名の「春よ来い」「星条旗よ永遠なれ」などと同じように使われている「よ」である。

 「よびかけ」は「呼びかける相手」と「呼びかけられる相手」の二人以上で初めて成り立つ。そして嫌いな相手や、無関心な相手に「よ」をつけて呼びかけることはない。この「よ」は「親しみの情」を持つ相手に対してしか使わない。つまりこの「よ」のよって、弱い人間は独りでないこと、弱さを指摘はしても嫌悪はしていないこと、これからも見捨てはしないこと、が読者に伝わる。読み終わった後に、一緒に手をとって歩いてくれるような、何とも言えない心強さを感じられる。(これが「自分の感受性くらい自分で守れ ばかもの」だったら印象が変わってくる。)

 このようにこの詩は細部まで「人間に対する信頼と愛情」を持って読者を批判してくれる。いくつになってもすんなり受け止められるのはこの強さと優しさおかげだろう。教えるたびに、読むたびに、自分を振り返るきっかけをくれる、どんな時代にも変わらない「人間愛」に溢れた作品だと思う。

 次回は「時代のせいにするな」というフレーズと、2000年代になって、世間に広がった「自己責任」という言葉との関係を書いていきたいと思います。

コメント

  1. 千切キャベツ より:

    もっと端的にまとめたほうが良いと思います。

    • araiguma より:

      ご意見ありがとうございます。短くわかりやすい文章が書けるように精進していきます!

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