読書感想文② 相沢沙呼「小説の神様」

読書感想文

相沢沙呼「小説の神様」

また生徒から本を借りた。仰々しいタイトルと若い子の好きそうな表紙から、私だったら買っていないな、と思った。けれどもこのように読む機会をもらえて嬉しい。このように生徒と本の貸し借りが行えて、自分の読書の幅が広がると、単純だがそれだけで教師をしていてよかった、と思ってしまう。(以下感想ネタバレなし)

幼いころから小説を読むと、本当に心が震える時がある。どこまで広い空想の世界へ心が飛んでいくような、深い世界へ沈んでいくような、自分でも止められないような大きな力が湧いてくる。人はこれを「感受性」と呼ぶ。私はいわゆる感受性の高い子どもだった。クラスの中で誰よりも本に対する想いは強かった。一つの作品をこんなに深く読めて、涙して、心に収めることができるのは自分だけだと自負していた。もちろん、本を読んでいると大人から褒められるので、という下心があったのも事実だが、本当に楽しく本を読んでいたし、そのように読めるのが一つの才能だと思っていた。

しかし、ふと思うことがある。「だから何?」と。「それで何ができるのか?」と。どんなに空想の世界を飛んでも、それは空想に過ぎない。感動した、という事実はあるが、それは現実で何か力になるわけではない。本好きだからといって、頭がよいわけではない。人間関係を作ろうにも、周囲の同級生は好きなアイドルやドラマの話をしている。その話題にはついていけない。この小説の主人公も思う。「本を読んでいるから自分はクラスの他の子と違う。」「クラスの中心にいるような明るい子みたいにはなれない。」「自分は現実逃避のために本を読んでいるだけだ。」と。

大学院で文学を研究しているときも、「何のために勉強しているの?」という問いをよく受けたが、結局「趣味」と言ってしまえばそれまでである。科学や社会学のように人の生活が豊かになるものと直結しているわけではない。よく「物語は人の心を豊にする。」と言われるが、ネット上に物語が違法アップロードされ、万引きされた商品が転売される現状を見ると、「本当に『物語』に力はあるのだろうか?意味はあるのだろうか?」という疑問が起きる。

それでも作者が「物語を書く」のはなぜが、そして読者が「物語を読む」のはなぜか。この作品はそんな問いと、作者なりの答えをしっかり書ききった小説だ。私は特に「読者」の在り方を深く問う作品だと思った。私は授業で詩作をさせるときに生徒たちに言う。言葉は「読者」が存在して初めて「作品」になる、と。そして短くてもクラス全員の作品に感想を書かせる。「共感した」「表現がすごいと思った」などの感想をもらうと生徒たちは当たり前だがとても喜ぶ。この「当たり前」を大事にしていきたいな、と私は思う。作品を作るのが簡単なことではない。それを知ったうえで他人に感想を伝え、自分ももらう。このように読書は本来作品を通して作者と読者が対話することである。一方的に読者が消費するものではない。授業のように読者が作者に直接届けるのは難しくても、その感動は確かに人を動かし、現実を変え、まわりまわって作者に帰っていくのではないだろうか。そんなことを考えさせられる一冊だ。

また印象に残ったのは、人付き合いが苦手な主人公に対する「物語に共感する感受性を内側に閉じ込めておくだけじゃなくて、外側にむけるの。」というアドバイスだ。私も教員になるにあたって「人付き合いが苦手」「生徒とどう接すればいいかわからない」というのが大きな不安材料であった。これを相談すると当時私の教師は「本を読む力があるからちゃんと人の心も読める」と、同じようなアドバイスをくださった。

言いたいことは理解できるし、きっとそうだろう、と言い聞かせている分部もあるが…。結局難しいのに変わりはない。けれども私の読書教訓に、「一回読んでわからないことは十回読め。それでもわかなければわかるまで読め」というのがある。本も人の心もきっとそんな風に読んでいくしかないのだろう。

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