木下順二「夕鶴」①
「つう」はヤンデレ?
『夕鶴』は戯曲作品である。民話として有名な『鶴の恩返し』を、「人間の欲」に焦点をしぼって木下順二さんが戯曲化した作品だ。またこれは團伊玖磨さんの作曲でオペラ化もされ、日本オペラの代表作として今でも上演され続けている。去年はロシアでも上演されている。(オペラ版はyoutubeに上演600回記念の公演があがっているので参考に。最後のカーテンコールには木下順二さんも映っています。)
まず、最初の私の学生時代の感想から話したいと思う。一番に残った感情は、主人公の「つう」(鶴が女性に化けている)がかわいそう、であった。彼女は美しい布を、夫の「与ひょう」のために身を削ってまで織るのだが、「与ひょう」は隣町の「惣ど」と「運ず」という二人にそそのかされて、布を売ることによって得られる「金」に目がくらむようになる。もう織れない、という「つう」に「与ひょう」は布を織ることを強要し、あげく「織っている間は見てはいけない」という約束を破ってしまう。そのせいで「与ひょう」の側にいられなくなった「つう」は鶴となって飛んでいく。
私は最初「与ひょう」が悪い、そして「つう」がかわいそう、という感想を持った。「与ひょう」が欲に目がくらんでいくのも、「つう」が離れて行くのも自業自得なのに、最後に後悔して悲しむのにも腹がった。
しかし、授業のために何度か朗読してみると、「つう」に対して違和感を覚えるようになった。生徒たちからの感想も「つう」に対して、「気持ち悪い」「怖い」「ヤンデレ?」といいう感想がでてくる。
(※「ヤンデレ」というのは「病んでいるぐらいデレデレ」の略で、「相手を愛しすぎて、過剰に束縛したり、嫉妬したり、精神的に病んでいるような行動をすること」である。
「つう」のセリフには『あたしのほかに何がほしいの?いや。いや。あたしのほかになんにもほしがっちゃいや。』と、ほぼ発狂状態になって、言う部分がある。確かに、これは生徒たちから「ヤンデレ」というレッテルを貼られても致し方ない。しかし、教師としてこちらも学生と一緒に「ヤンデレだね。怖いね。」という返しをするわけではない。むしろ、そういう違和感からこの作品を深く読む糸口が見つかるのでは、と思って読んでいった。
まず、ヒロインである「つう」は「欲がない」存在として描かれる。それは「かう」「おかね」という言葉を知らない、という形で表現されている。『「かう」って何?』というセリフや、『「おかね」って、そんなにほしいものなの?』というセリフがある。「つう」のセリフの中で、「かう」「おかね」には絶対に「」がつき、ひらがなで表記される。彼女の生きて来た世界には元々そのようなものが存在しない。だから「与ひょう」の『そらおめえ、金はだれでもほしいでよ。』というセリフが理解できない。この差異により二人の溝はどんどん深くなっていく。
じゃあ、「かね」も「かう」もない、「つう」の世界にはどのような世界なのか。矢に撃たれて苦しんでいる「つう」を助けてくれ「与ひょう」のことを『あんたはほかの人とは違う人。あたしの世界の人。』と考えている。「つう」はこのように『あたしの世界』と『別な世界』を明確に分けている。『別な世界の人』として認識している「惣ど」と「運ず」は言葉すら通じない。そして、欲にくらむ「与ひょう」もこの「つう」のいう『別な世界』へと引っ張られていく。
「与ひょう」が「つう」を脅して、布を織らせようとする場面で『布を織れ。すぐ織れ。今度は前の二枚分も三枚分もの金で売ってやるちゅうだ。何百両だでよう。』というセリフを、「つう」は聞き取れない。『え?え?何て言ったの?』と驚き『わからない。あんたの言うことが何もわからない。…あんたが、とうとうあんたがあの人たちのことばを、あたしにわからない世界のことばを話しだした…』とパニックになって叫ぶ。
しかし、その直後の「与ひょう」の心配した『どうしただ?つう…』は彼女に通じる。簡単に分けるなら、「やさしく愛情にあふれている言葉」は通じ、金、買う、といった「欲深い言葉」は「つう」通じない。「与ひょう」のところに来たのも、彼が『何の報いも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。』からだ。見返りを期待せず、無欲に優しい純粋な心で助けたから、「つう」は「自分と同じ世界の人」だと思ったのだ。
つまり、「つう」の世界は「愛の世界」だ。「欲」が一切ない世界だ。だから「与ひょう」が、「愛」を与える自分という存在が、近くに既にいるのに、(「つう」にとってはそれで十分なのに)なぜ「おかね」を欲しがるのか、理解ができない。だから『あたしだけをかわいがってくれなきゃいや。』というヤンデレなセリフが出てくる。そもそもの価値観が違う。
しかし、実はこの「つう」に対して、私達が「違和感」を抱く、というのが、この作品の狙いであり、本当の主題に繋がる部分である。つまり生徒たちの「ヤンデレだ」という感覚は正しい。このことについては次回の更新で詳しく書きたいと思う。
コメント
つうがよひょうに見られたことに気づいた場面は具体的にどこですか?
戯曲を読んだのですがよくわからなかったので解説をお願いします
duckさん、こんにちは。気づいた場面ははっきりと描かれていません。与ひょうが覗いたあと、与ひょうは気が動転しますが、つうは機を織り続けています。けれどもつうがいつもの倍の時間をかけて織ったこと、最後につうが与ひょうに二枚の布を持たせたこと。ここから、覗いた瞬間につうは気付いたと思っています。そのうえで、自分ができる最後の愛の形として布を二枚織ったのだと思います。