読書感想文③ アンソニー・ホロヴィッツ「カササギ殺人事件」(MAGPIE MURDERS)

読書感想文

アンソニー・ホロヴィッツ「カササギ殺人事件」(MAGPIE MURDERS)

 年末はどの界隈でも、一年の中で最も優れたものが選出され賞が贈られる。それは出版業界でも例にもれず、優れた本には賞が発表される。私はもともとミステリーが好きなので、毎年発表される「このミステリーがすごい」など、推理ものの賞はいくつかチェックしている。

2018年度はイギリスの作品、邦題「カササギ殺人事件」が「ミステリが読みたい!」「週刊文春ミステリーベスト10」「本格ミステリ・ベスト10」「このミステリーがすごい!2019年版」の海外部門でそれぞれ1位を獲得した。この連覇は史上初の快挙であり私の近所の本屋でも大きくとりあげられていた。

 ただ、「このミス」に選ばれたからといって、良い作品か、と言われると、それは好みの問題であり、作品の中でもどこを評価するかによって分かれる。私自身も正直イマイチだと感じるものが今までにあった。だからすぐには買わず、今頃になって読んでみた。(ちょうど次に読むものを探していて、図書カードをもらう機会があったので)噂通りのなかなか凝った作品だったので感想を書いておく。ネタバレ無しに言えることといえば、イギリスの小説やミステリーを読んでいる分楽しめる作品であり、「小説」「作品」とは何か?「作者」と「出版社」「読者」の関係とは?という文学を扱う人間が行き着く問題を考えさせられる作品だ。それを言葉でなくて、作品にほどこされて仕掛けをつかって感覚的に読者にとらえさせるのがかなり上手いと思った。以下はネタバレ有りの感想になるので注意してほしい。これから読むひとたちは少なくともアガサ・クリスティーの作品をいくつか読んだあとに読む方がいいだろう。

 ネタバレ有り

 下巻を読んだ時の「やられた!!裏切られた!!」という感じがとても強かった(笑)。始まり方が劇中劇を読む、という形なので、どこかこうなることを予期してはいたが、まさか下巻の登場人物紹介から、こんなにガラリと変わるとは思っていなかった。上巻での謎にお預けをくらったままで、この登場人物紹介を見たときの絶望感に近い「やられた!」感はすばらしかった。

 上巻ではアガサ・クリスティーの世界が広がる。狭いのどかな村の大きな屋敷で起きた事件。次々に浮かびあがる容疑者。密室の謎、アリバイ、嘘の証言、ミスリード。どれも古典的なミステリーをなぞっている。そこに登場する探偵アティカス・ピュント。強制収容所で運よく生きながらえ、イギリスへと渡って来たユダヤ系の彼は、仕草や服装から「名探偵ポワロ」を彷彿させる。また彼が死と直面していて、どうやらこれが最後の事件になる、ということも主人公として魅力的だ。私は上巻を読み進めるうちに、知的で上品で、ある程度読者にも思わせぶりなヒントをくれる彼に惹かれていった。探偵は動かなくてはミステリーが進まない。しかし、その探偵がうるさすぎると事件の全貌が見えてこない。読者が謎解きとしてのミステリーを楽しめなくなってしまう。アティカス・ピュントはそんなことが全くなかった。私がアガサ・クリスティーをもともと好きなのもあるだろう。(そういう人ほどこの作品はおもしろく、だまされる。)劇中劇をすっかり一つのミステリーとして楽しんだ。そして、死が迫っているかの探偵がどうにか助からないか、と願っていた。

 しかし、下巻でそれは裏切られる。劇中劇は幕を閉じて、時代も現代に戻り、現実での事件が始まる。探偵役も女性編集者であるスーザン・ライランドに変わる。「カササギ殺人事件」の作者であるアランの死を追う事件が始まる。この下巻からはじまるもう一つの事件ははっきり言って「陳腐」である。探偵役もスーザン自らが認めているように探偵としての役割を果たさない。クライマックスにいたってはメロドラマのようなご都合主義の展開で幕を閉める。これが作品の中の本来の「現実」なのだが、作者が意図的に逆に「創作」のように描いているようにも読める。この「現実」と「架空」の取り違えは、上巻のピュントたちの世界が虚構でありながらも、その世界がミステリーの王道であり、「読者が望んでいるもの」であることが浮き出しにされる。(現に私は早く上巻の続きが読みたくて仕方なかった。)

 そしてこの「読者の望み」は生みの親である作者の意図を離れていく。上巻のアティカス・ピュントを誉めたたえる記事の白々しさ。「作品」を「名作」として作り上げているのは誰なのか?それは「作者」であるアランではない。それは会社を、自分たちの生活を保とうとする出版会社である。彼らは読者の求めるものを売り出す。読者に「売れるもの」を作り売り出す。

 作者が世の中の真理をつき、神に近づくために高尚な物を望んで書いたとしても、それは読者に望まれなければ意味がない。(ここで「悪魔の詩」の作者であるサルマン・ラシュディ―の名が挙がっていることに笑ってしまった。政治、社会面で見たとき、読む必要は確かにあるのだろうが…まあ、読んでいるときは苦痛でしかなかった。)

作者は「作者」であるため、作品が「作品」になるためには、「読者」が必要不可欠となる。その読者の望むものを、出版社を介して売り込む、こうしなければ作者は作者として存在できない。しかし、作者が読者の望みを魔法のようにどんなに上手く叶えてみせ、ベストセラー作家となって、大金を稼いでも、作者自身の望みは永遠に叶うことがない。作品により規定される作者は、作り出した作品が邪魔になる。創作の範囲が制限されてしまうからだ。(ここで「クマのプーさん」の作者であるA.A.ミルンの名前があがったのにもニヤリとしてしまった。彼は一生「児童文学作家」として位置づけられるのをひどく嫌がった。彼はもっと大人向けの純文学作家として名をはせたかったのだ。)

ピュントを生み出した作家のアランがまさにそのような苦痛に追い込まれていた。そしてみなからいわゆる絶賛されている「作品」に自ら泥を塗った。いや、そもそも生み出したこと自体が「泥」でしかなかった。その醜い泥を見せられた私は、あんなに上巻で生命を心配していたピュントのことなどどうでもよくなっていた。彼の上品さや知的さは全てが根底からまやかしだった。けれども彼の魅力からはアランの才能を大いに読み取ることができるのが「読者」としては非常に悔しいところだ。「作者」と「出版社」と「読者」の関係は出版の世界では永遠のテーマなのだろう。

ところで、そんなアランが書いたと知ったうえで、劇中作である「カササギ殺人事件」、つまり上巻を読み返すと面白そうである。(とうぶんやる気はないが…。)作者は作品をゼロから生み出すことが決してできない。身の周りから、生活から、自分の欲望や無意識から作り出す。事実、アランは周りの人間をモデルに「カササギ殺人事件」を書き出した。そして作者であるアラン自身は、才能はあっても世に認められず、売れない画家、アーサー・レッドウィングとして登場している。登場シーンは少ないが、下巻の描写をみるとそう読んで間違いないだろう。そのことを踏まえて読み返したらまた新しい発見がありそうだ。

もしかするとアランは、世間に認められなくても、才能を理解してくれる妻と一緒に小さな村で過ごすアーサーのような生活に内心憧れていたのかもしれない。

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