森鴎外「最後の一句」④
「佐々の苦悩」
「佐々」はこの作品のもう一人の主人公である。彼が「権力」の代表として「いち」と対峙する。私は中学生の頃、かっこいいヒロイン「いち」に憧れていたが、大人になるにつれ「佐々」の方に感情移入するようになった。それは彼が組織で働く全ての人の代弁者であるからだ。
「佐々」は西町の奉行になってまだ1年目の新参者である。彼は奉行の仕事をまだ1人で決断することができず、同役である東町奉行の「稲垣」、大阪城、城代の「太田」に伺って決めている。まだ奉行としての決断力がない人間だ。そして今回の「桂屋太郎兵衛の件」は二年まえの事件なので、前役からの引継ぎである。そしてそんな事件の処刑の手続きがすんだことを「重荷を下ろしたように思っていた」。そんな彼に「いち」からの願書が届く。これに「佐々はまずせっかく運ばせたことにじゃまが入ったように感じた」。そして「佐々」は不機嫌な声で願書を持ってきた与力に対応する。その後、前回にも書いたが、徳川将軍が「目安箱」を設置しているのだがら、という理由で願書を内見する。
父親を助けたい一心で、自分の命をかける覚悟を持って決断しみずから行動する「いち」と比べると、「佐々」はかなり形式的で消極的だ。自分で決めることが出来ず、上役に従い、庶民からの意見に不機嫌な態度を見せる。また、「いち」の父を助けたいという願書を読んでも、彼女の意見を真摯に受け止めるどころか、「上を偽る横着者の所為」ではないのか、と疑ってかかる。つまり自分たちの保身を第一に考える。とにかく「いち」と比べると情けない大人と見える。
しかし、私たち大人は誰だって「佐々」と同じことをしている。例えば教師で言うなら、去年の担当が解決できなかった問題をそのまま今年に持ち越されたら、当然面倒くさいという感情が残る。自分の問題ではない、と割り切ってしまう気持ちも出てくる。また、責任が重いこと、不安なことは上役に聞いて質問する。当然「ほうれんそう」は大事だが、上役に相談し決めてもらうのは責任逃避の面も少なからずある。また組織にいるのだから、その組織の規則や慣習を越えてまで、新しいことを始めることや、積極的に物事に挑戦していくことも無くなる。つまり自分で考え、自分で動くことができなくなる。しかしそんな状況でも、生徒にはある程度の威厳を示さなくてはならない。(「佐々」の場合は庶民に対して)だから「門番」のように威張り怒声で威嚇をするし、「佐々」のように、自分達を馬鹿にするような態度には過剰に反応する。私も生徒が舐めた態度を取ってくると過剰に反応してしまうことがある。「教師」という(一応)権威ある立場が脅かされるのは、自分の落ち度が暴かれ責められている気がするからだ。
「佐々」も、他のどんな権力をもっている人も結局は「人」だ。面倒くさいことは面倒くさいし、出来ないことはできない。不機嫌になることもあるし、サボれるならサボりたい(笑)。それこそ神様のように、常に権力をもたいない弱気人々のことを考え、彼らに寄りそって、彼らの満足する決断を下すことは無理な話だ。上手く物事を運ばるために、「佐々」は「責め道具」を使って子どもたちを脅かす。教師も生徒たちが納得していなくても、権威を振りかざして従わせることはよくある。
しかし「いち」の「最後の一句」は「神様」を求める言葉である。
「お上いうことには間違いはこざいますまいから。」
権力者のいうことに間違いなんてありませんよね? あっていいはずありませんよね?
非常に鋭い皮肉であり、かなりすれすれの挑発的な言葉だ。しかし「いち」たち庶民からしたら、当然間違いなどあってはならない。「佐々」の一言で父親は死ぬ。「お上」は人間を殺せる権力を持っているのだから、間違いなど絶対にあってはならない。権力者はその覚悟を持ってその場所に座っていなくてはならない。
「佐々」だけの話ではない。私は教師として授業中の45分間、生徒たちの行動を規制し自分の話しを聞かせる権利を持っている。この45分間、果たして「間違い」なく教師という権力者の立場に立てているだろうか。教える内容はもちろん、声のかけかた、生徒たちのモチベーションの上げかた、宿題を忘れた生徒への対応、評価の仕方。全て「正解」を叩きだしているだろうか。(ちなみに私はよく漢字を間違えて書くことがある。その度に謝っている……。)生徒たちもそうである、中学3年生の彼らは後輩たちからみれば、「先輩」という立派な権力者だ。部活の指導や、接し方、叱り方、すべてにおいて正しい先輩でいられるろうか。
だからこの作品は二つの面でみなくてはならない。まずは権力に立ち向かう「いち」側から。権力が上から言うことにただ従うのはいけないことだ。「権力」側は神様でないのだから必ず間違える。それを「まつ」のように、権威的な態度を怖がって帰ることをしてはいけない。例えば、1948年の4.24教育闘争では朝鮮学校を廃止令に対して、当時の在日朝鮮人たちは命をかけて反対した。自分たちの誇りにかけて学校を守り抜いた。このような権力との闘争は必ず必要だ。(当然その時代にあった合法的な戦い方で!)今の日本社会にも憲法改正に反対し、米軍基地問題に反対し、軍事費増額に反対し、その他の生活用品値上げに反対し、自分の判断で闘っている人たちはたくさんいる。こういう人たちの存在があるから権力は暴走しない。
そして「佐々」側から。私たちは神様になれない。常に絶対的に正しい判断を下すことはできない。けれども権力側として何かを決める時、(生徒たちには部活や委員会活動の目標やルールを決める時を想像させる。)面倒だから適当に決めることや、誰かに対して悪意を持って決めること、個人的な感情を優先して決めることはどうだろうか。早く委員会を終えて帰りたいから、去年と同じでいいです、という意見を出すことや、後輩になめられたくなくて、適当に嘘をつき、知らないことをごまかすこと。これが続けばどうだろうか。
「上」の決断に無条件従わなくてはならないのは「下」の人間である。それは私から見れば生徒であり、中3の生徒たちから見れば後輩たちである。どんな無駄な練習や理不尽なことでも、教師や先輩が命令すれば、彼らはそれに従わなくてはならない。だから権力の「上」にいるものは、常に「下」にいる人たちのことを考えて、絶対的な正解は無理でも、それに近づけるための努力を怠ってはいけない。それが権力者側の「責任」というものだ。
もちろん人間だから、間違えることも手を抜くこともある。作者の森鴎外にいたっては、自分の間違った判断によって3万人を脚気で病死させている(ヤバい)。けれども私たちはその大小の違いはあれども、常に何かしらの「権力」の上にいる。だから「お上のいうことには間違いはございますまいから。」という「いち」の言葉は誰の胸にも刺さるのである。
それにしても「いち」のセリフは絶妙だなと感心する。権力への痛切な皮肉であり、官僚機構への反抗になる言葉だ。「佐々」側もその真意を読み取ったのだが、結局、彼らは何も返せなかった。権力側は「私たちは偉い。賢い。平和な社会のために。庶民たちの幸せのために!」を建て前に権力の座に座って威張っているのだがら、「間違いはないですから」と言われれば、それを否定することはできない。
その後、「いち」が大人たちに「物でもついているのではないか」と噂されるのは納得がいく。彼女がどれくらい意図的にこの「最後の一句」を放ったのかはわからないが、江戸時代にここまで気の利いた皮肉を言える少女がいたとはとても想像がつかない。「いち」は完全に大正時代の男性が描いたフィクションとしての少女像なのだから、「佐々」たちからしたら生身の人間として受け入れられないのは当然だろう。大人のおじさんばかりの権力機構に一撃を与える少女。なんというか、この幻想に夢を抱くしかない男性の権力社会も大変だな、と思ってしまう。
そして逆に「いち」が、たとえばもっと大人になったら、なにかしら役職を得て権力側へと入ったら、彼女は戦い抜けるだろうか、という疑問も浮かぶ。責任が重くなり守るものが増えた時、彼女は同じように鋭く刃のように戦えるのだろうか。いや、そもそも時代観から隔離されている彼女が成長するヴィジョンがみえない。(おばさんになったナウシカが想像できないのと一緒。)権力に一撃を加えるのは、やはり生活感から浮遊したミステリアスなフィクションのキャラが似合うようだ。そしてそれはつまり、それくらい「権力」というのはややこしくて面倒くさい構造をしているということだ。
さて、今日も「いち」の最後の一句を胸にいろいろと頑張っては失敗、を繰り返しましょうか(笑)。
次は、ついに高校の教科書に行こうかな、それとも中2の短歌や中3の俳句に関しても、もう少し書こうかなと迷っています。前回少ししか書けなかったので……。高校の教科書に入ったら、当分高校の教材のみを書いていくので、もしまだ中学の教材で何かあれば、お気軽にメッセージなど書きこんでください!できるだけ早めに対応いたします。よろしくお願いいたします。
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