森鴎外「最後の一句」②

森鷗外「最後の一句」

森鴎外「最後の一句」②

「桂屋太郎兵衛の罪と罰」

死罪となる「太郎兵衛」は船を使った運送業に務めていた。秋田から船で米を運んでいたのだが、運悪く風波の難に遭い、積み荷を半分以上流出してしまう。沖船頭であった「新七」は残りの米を金に換え、全ての積み荷が流れたことにして自分たちの儲けにすることを「太郎兵衛」に提案する。「太郎兵衛」も船の損失という痛手から目がくらんでお金を受け取ってしまう。この「罪」に対して「死罪」という罰が与えられた。

(余談だが、舞台が商人の町である大阪であること、米主が秋田にいること等、地域的な特徴もついでに教えておきたい。後述するが時代にも。)

 

 生徒たちに尋ねるのは「この太郎兵衛の罪に対して死罪という罰は妥当か」ということだ。大抵、生徒たちの反応は「重すぎる」である。横領をもちかけた「新七」の方が悪いという意見や、その分のお金を返せばいいという意見があがる。

 舞台となった「元文元年(1736年)」には、刑罰といえば「死罪」か「追放」しかない。罪の大小に関係なく「悪」は根絶するか、自分たちの外側へと追いやることで、社会の治安を維持しようという当時の考え方がうかがえる。しかし、当時「追放罪」に処されると戸籍を奪われて追い払われるため、罪人たちはまっとうな職につくことができない。そのような罪人たちが生きて行くために、結局は強盗などまた悪事を働くことになった。悪を成敗するために与えられた罰のせいで、皮肉にも悪を重ねるという矛盾が発生したのである。この問題の解消を目指し、1742年に徳川吉宗の下で「公事方御定書」が制定された。ここでようやく罪に対しての罰が細分化され、「鞭打ち」や、罪人だと一目で分かる「墨入れ」などの比較的軽い罰が取り入れられることになった。

だから、この作品の中で「太郎兵衛」が「死罪」となることは当時の刑法と価値観からいえば妥当である。

 

生徒たちに続けて質問する。「では、君たちの感覚だと、どこからが死刑? 何をしたら死刑?」この質問には様々な答えが出てくる。一番スタンダートなのは「人を殺したら死刑」だ。それでは「何人?」と尋ねる。「1人?」「2人?」……。他にも「殺意はなく事故で殺してしまったら?」「それは死刑ではない。」「その理由で3人殺したら?」等と、いろいろなやり取りを行う。そして、時代や国によって違うこと、「殺意」があるかどうかを見極めることが難しいこと、「死刑」とい刑罰に反対する人も、賛成する人もいることを確認する。

 つまり「罪」に対して、絶対的な「罰」というものがこの世界に存在しないことを確認する。全てを決める絶対的な神様はいない、と。

 しかし「罰」は存在する。この世界に「神」はいないが、代わりに「人」が決めた罰は存在する。「誰が決めているの?」と質問を投げる。普通の人は決められない。誰でも決められるものではない。生徒たちとそれは「権力(権利)を持つ人」であることを確認する。

 

さて、この時代を生きる「太郎兵衛」なら、横領をすれば「死罪」となることを知っていたはずである。当然、新七に言われたように、バレないだろう、という気持ちはあったにしても、死罪になるかもしれないのに、「良心の鏡が曇った」としても、簡単に他人の金銭に手をだすだろうか。例えば、現代で「万引きの現行犯は死刑」と設定されていたとしたら、今よりグッと犯罪の件数は減るだろう。

「太郎兵衛」は今回の事件を起こすまで真面目に働いていたし、沖船頭の「新七」を雇えるくらいなのだから、そこまでお金に困っていたとも思えない。そんな彼の良心の鏡を曇らせたのは何だったのだろうか。本文にもあるように、船の損害は確かに大きかっただろう。ここからは完全に推測の話になるのだが、もしかしたら「太郎兵衛」はどうしても「お金」に余裕を持っていたいプライドがあったのかもしれない。

「桂家太郎兵衛」の家には、平野町の「おばあ様」がたびたび訪れる。彼女は「太郎兵衛」の女房の母親である。彼女は「いつもいい物をお土産に持ってきてくれる」。そして「平野町の里方は裕福なので、おばあ様の御土産はいつも孫たちに満足を与えていた」。船乗り業がどれだけの規模で、どれだけ稼ぎがあるかは知らないが、「おばあ様」の描写は、「桂家」よりも女房の実家の方が裕福そうな印象をうける。

「太郎兵衛」が彼女に嫌な気持ちを持っていたとは思わないが、何かしら心にひっかかるものは持っていたかもしれない。「太郎兵衛」の父母がどのような人であるかはわからない。そこに対しては一切の描写が無い。「太郎兵衛」が入牢したとき彼の家を援助したのは、やはり平野町の女房の実家であった。

この裕福な女房の実家の存在は、「桂家」という一家の大黒柱である「太郎兵衛」の良心を曇らせる要因になったのではないだろうか。不慮の事故とはいえ、これ以上金銭面で揺るぎたくないという「太郎兵衛」の気持ちを強めたのではないだろうか。日頃から家では買えないような菓子やおもちゃを子供たちにかってもらっている。ここでさらに、船の修繕費用が必要となると、どうしても家族の生活面は女房の実家に頼らなくてはならないことになる。「桂家太郎兵衛」としてのプライドが判断を誤らせたと原因になったかもしれない。

この「おばあ様」は本筋には絡んでこない。最初の導入部に出てくるだけだ。しかし彼女の存在は「太郎兵衛」の罪を納得させる舞台装置の役割を果たしている。(それと共に「太郎兵衛」が追放となっても、「いち」たち家族が、どうにか生活をしていけるという安心感も与えている。)

この「桂家太郎兵衛」の罪を犯す心情は、高3で習う『高瀬舟』に出てくる「庄兵衛」の心情とぴったり重なる。彼は罪人を流す仕事をしながら、このように考える。

「常は幸いとも吹こうとも感ぜずに過ごしている。しかし心の奥には、こうして暮らしていて、ふいとお役が御免になったらどうしよう、大病でもなったらどうしようという疑懼が潜んでいて、おりおり妻が里方から金を取り出してきて穴うめをしたことなどがわかると、この疑懼が意識の閾の上に頭をもたげてくるのである。」

『最後の一句』が1915年に発表され、その一年後、1916年に『高瀬舟』が発表される。「桂家太郎兵衛」の心情を明確に描いたのが「庄兵衛」なのかもしれない。

「女房」といえば、森鷗外には最初の妻「登志子」と再婚した妻の「志げ」がいる。鷗外が美女とたたえた「志げ」は、姑との対立が激しく「悪妻」として有名だったそうだ。彼女たちについては知識不足で書くことはできないが、「桂家太郎兵衛」や「庄兵衛」の心情を思うと、森鷗外も家庭をもつ一人の「男性」として苦労しのだなあ、となる(笑)。前回の記事で「いち」のような「強い女性」を理想像として描いた、と書いたが、案外近くに「強い女」のモデルがいたのかもしれない。

 後半はなんとなく「おばあ様」に注目して書き始めましたが、作家に対する理解が深まるきっかけとなりました。森鴎外についてはまだまだ知識不足なので、関心を広げられたらなと思います。次回はもう一人の主人公である「佐々」について書いていきます! 

コメント

タイトルとURLをコピーしました