ヘルマンヘッセ「少年の日の思い出」①

ヘルマンヘッセ「少年の日の思い出」

ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」①

「光と闇」

「少年の日の思い出」は元々、中学一年生の教科書に掲載されていたが、数年前から三年生の教科書に移動になった。日本の学校でもそうだが、割と生徒たちには印象に残る作品だ。題名は覚えていなくても「エーミール」と、言えば大抵は「あー!」となる。

作者のヘルマン・ヘッセを紹介するときに、代表作である「車輪の下」もあげる。ある年、「これは、暗い作品で、読んだら学校に来るのが嫌になるよ。」と、冗談で紹介したことがある。

すると、高校生になってから、「車輪の下」を読んだという生徒が現われた。とても真面目で頭の回転が早い優等生だった。クラス委員の仕事もしっかり務める学生だった。その生徒が、どんよりした顔つきで、「読んでから、なんで、自分は学校に通っているんだろう、って悩んでしまいました。」と、言ったのには責任を感じてしまった。

読書後に何かしらの影響を受けることは、その生徒が自分と重ね合わせたよい読書の仕方をしたということだろう。もう卒業してしまったが、またゆっくり今の感想を聞いてみたいな、と思う。

「少年の日の思い出」は、大人たちが回想に入る前の一段落が好きだ。導入部なので、短く地味ではあるが、光と影の使い方が上手いなと思う。

「わたし」が客に収集していた蝶を見せる時、それは光り輝いている。

「わたしのちょうちょは、明るいランプの光を受けて、箱の中から、きらびやかに光り輝いた。」

 辺りはもう暗くなっている時間だ。「ちょうちょ」の明るさを客である「ぼく」も眺めるが、すぐに「箱のふたと閉じて」しまう。彼にとって「ちょうちょ」は何よりも明るい少年時代、そのものを象徴している。明るく楽しく、自分も、周りも光に包まれていた時代。しかし、今の大人になった「ぼく」にとっては、まぶしすぎるのだろう。長く見続けることはできない。

そして「ぼく」が思い出話をする時は、光を消して闇の中に入る。

「彼は、ランプのほやの上でたばこを火につけ、緑色のかさをランプに載せた。すると、わたしたちの顔は、快い薄暗がりの中に沈んだ。彼が開いた窓の縁に腰掛けると、彼の姿は、外のやみからほとんど見分けがつかなかった。」

 まぶしい少年時代を語るには、「ぼく」は大人になりすぎた。闇の中で光を眺める形でしか語ることができない。また、彼の「少年の日の思い出」はまぶしさと共に、その光を自分の手でつぶしてしまった恥ずかしい過去も含まれている。それを友の前で話すのは恥ずかしい気持ちもあるのだろう。堂々と友の顔を見て話すのではなく、自分の中にある、痛いくらいまぶしい光を遠目に見ながら語り出す。

 大人なら、誰しも忘れてしまいたい過ちがある。むしろ現在進行形でそれは増え続けているのだが、純粋な子供だった時代の「過ち」は、大人になってからとは比べようもないぐらい、心に強い衝撃を残す。

ところで、「ぼく」がこれを他人に語るのは、きっと初めてのことだ。日々の生活のなかでは忘れている出来事。しかし、忘れても決して消えてはくれない光と痛み。それが「少年の日の思い出」である。

 これを書きながら、私は「BUMP OF CHIECKEN」の歌詞を思い出した。「Ray」や「なないろ」などの歌詞が思い浮かぶ。消せない傷は忘れても、確かに存在する。そしてバンプはそれを否定せず「それすらも自分の光」と捉える。(バンプの歌詞大好きなので、いつか記事にしたいです。)

しかし、「ぼく」はバンプの歌詞のようには思っていない。昔の傷はまだ痛いままで、遠くてまぶしいまま、現在の自分を照らす「光」にはなっていない。しかし、「ぼく」はやっと、この記憶を掘り起こし、「他人に語る」ことで客観的に見て、受け入れようとしているのではないだろうか。よく、悩みや辛いことは、他人に語れるまでになれば、一番つらい時期は乗り越えている、という話を聞く。確かに本当に辛く、自分なりに整理がついていない感情は、他人に言語化して伝えることは困難だ。

 だから、私はこの一段落が好きだし、大事だと思っている。もいろん、「ぼく」が乗り越えるために、強い意志をもって話し出すわけではない。偶然の成り行きで、長い年月をかけて、やっと「語る」場に巡り合っただけだ。

「ぼく」はこれを語ったあと、どうなったであろうか。私はいつも気になってしまう。しかし、残念なことに冒頭部の語り手であった「わたし」は、客である「ぼく」に語り手を譲り、その後出てこない。「少年の日の思い出」は、大人の現在から始まって、語られた「思い出」で幕を下ろしてしまっている。確かに、あのラストにまだ現在に戻って大人パートを付け足すのは蛇足だろう。でもだからこそ、読後の想像はする価値がある。

 聞き手であった「わたし」は、語り終わった友人になんと声をかけたのだろう。「ぼく」は語ってみてどんな気持ちになったのだろう。多分、語った後はすぐに部屋を去って休んだだろう。そして当分は思い出した「痛み」を引きずっただろう。けれども今までみたいに忘れてしまった、考えることもできなかった、つまり、存在しないに近い透明な記憶ではく、ちゃんと「痛み」として捉えることができるようになったのではないだろうか。

 当時のドイツと現代の日本で、価値観は違うので、それを「ぼく」がどのように捉えたのかはわからない。けれども、バンプが好きな一人の読者としては、その痛みやまぶしさが、ちゃんと今の自分に繋がって、背中を押してくれている、という考えにたどり着いたらな、と思ってしまう。

 しかし、こうなると作品としては「陳腐」だな、となってしまう(笑)。だから「少年の日の思い出」は、あそこで終わって、ちゃんと名作だ。

 さて、大分更新に時間が空いてしまいましたが、やっと「少年の日の思い出」について書くことができました!次回は「思い出」に入っていきます! そして、例の「模範少年」に会いに行きましょう。笑

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