読書感想文⑥「蜜蜂と遠雷」

読書感想文

恩田陸「蜜蜂と遠雷」

2017年に出版されてから、今でも本屋の店先に並んでいる話題の本だ。直木賞と本屋大賞も受賞し映画も放映され、今の日本を代表する本の中の一冊だと思う。以前から友達に勧められていたのだが、作家の恩田陸さんの作品は『六番目の小夜子』と『夜のピクニック』しか読んだことがなかったので、なんとなく手が伸びずにいた。二作とも設定はおもしろくて好きだし、印象深く記憶にもはっきり残っているのだが、なんとなく物足りなさ残る、という感想を持っていたからだ。(本当にすみません。)

けれどもついに生徒から貸してもらったのを踏ん切りに、冬休みの間に一気読みすることができた。軽くネタバレをしながら感想を書いてみようと思う。(コンクールの結果などのネタバレは含めない。)

「音楽」でも何でも「芸術」には「体系」がある。定められた基準があってその中で優劣が評価される。それは先人たちが長年かけて築いてきた大きな「体系」であり、「芸術」をなんとか科学的に言語化して「人間の解るもの」に抑え込んできた努力のおかげだ。

この「体系」があるから、私たちは安心して音楽と向き合うことができる。基準があるから、それを目標に音楽の道を進んで、技術をみがき、知識を深めることができる。

けれども、本書で何度も表されるように、そもそも「音楽」は人間が「体系」を作る前の、人間が、自然と自分を分けて、「人間」と規定する前、つまり人間社会を作る前から存在しているものである。原初の音楽とは、鳥の鳴き声であり、風が木々をゆする音であり、雨の落ちる音である。人間社会の中に納まらない、もっとも自然で原始的な「神の領域」の存在ともいえるものだ。

原始的な自然の音楽を体現しているのが「風間塵」である。「音楽の体系」どころかピアノのレッスンも一度も受けたことがない少年が、「音楽」を体系から解放し、元の自由で自然なものへと解放する。彼に対して当然、審査員たちは自分たちの「体系」外の彼をどう受け止めて、評価すればいいのかわからない。審査員たちは彼の演奏に興奮しながらも、同時に「ありえない」という拒否感をおぼえる。評価する側も「体系」に沿って、「体系」の中から「音楽」を評価しているのだから当たり前だ。

これは「音楽」だけの問題ではない。例えば、私たちはすべてを「言語」を通して理解する。私たちの周囲に名前のない物や現象はほとんど存在しない。しかし、物事の本質や意味の広さ、深さ、は言語だけではとうてい計り知れたものではない。「リンゴ」という言葉を聞くと、人々は「赤くて丸い果物」を想像する。けれども、本当は「リンゴ」の中には色や形は様々なものがある。味だって全然違うし、固いもの、ぱさぱさしたもの、密が多く含まれたもの、等、さまざまである。本当は一つ一つ違うものだが、それを便宜上「リンゴ」という三文字に収めているだけだ。

話しがそれたが、何事も「体系」があるのは安心で便利だ。けれども「体系」があるからこそそれ以上を想像できなくなってしまう。「人間」が作ったモノなので、人間の領域内だけでしか考えられなくなってしまう。

この「体系」を捨てられないのも仕方がない。この「体系」の最高到達点が「コンクール」だ。以前、とある音楽コンクールに生徒たちが出演したのだが、技術面は非常に高く評価され、その地区の代表になって上の大会には上がれなかったが、金賞を受賞したことがあった。しかし、ある審査員が「楽しませてもらいました。この曲がコンクール向きの曲かは別として……」と、講評に書いていた。確かにコンクールの定番曲ではなく、奇をてらったようなインパクトのある曲だが、特に要綱の規定から違反しているわけではない。しかし、コンクール向きというか、審査員のウケがいい、音楽が存在する。このように技術だけの評価ではなく、その「体系」に沿わなくてはならないという、暗黙の了解が根底にあるのが「コンクール」だ。(体育会系の部活から転部してきた生徒は、試合のようにはっきり点数差があるわけでもないのに、音楽に優劣をつける理由が納得できない、と文句を言っていた。)

しかし、「コンクール」というこの人間が作った不条理な場がなければ、現代の「音楽」という学問が育たないのも事実だし、そもそもこの作品の登場人物たちがお互い出会い成長することもなかった。栄伝亜夜、マサル、風間塵の三人は、会話ではなくお互いの「ピアノ演奏」によって、共感し、勇気づけられ、関係を築いていく。

彼らはお互いの「演奏」によって影響し合い己の内にある音楽を呼び覚ます。一度、音楽をあきらめた亜夜は音楽の道へとまた戻ることを迷うが、風間塵の体系にはまらない「本来の音楽」を浴びて、自分の「本来の音楽」を取り戻す。この場面は印象的だ。

風間塵は、誰も聴く人がいなくても自分はピアノを弾きつづける、と亜夜に伝える(言葉ではなくてピアノで亜夜につたえるのだが)。彼は「人間」が理解するために(自分たちの『知』で征服するためにと言ってもいい)作ってきた体系を彼は必要としない。音楽は彼にとって世界中にあるものであり、それは「人間」だけのものではないからだ。

 そんな彼に対して、「それは音楽家といえるかしら」と、亜夜が疑問を呈するのもおもしろい。文学も読者がいて初めて「作品」といえるように、聴衆がいて初めて音楽も「作品」になる。けれども、風間塵はその部分はぼかしつつも、やはり「音楽は本能」「鳥が歌うのと同じ」だと結論づける。

 亜夜も彼と同じで、音楽に触れたきっかけは、幼少期に聞いた屋根におちる雨の音だ。そこに馬が駆ける映像を見た彼女は、まさに音楽の「体系」外で「音楽」に出会った。彼女が風間塵の演奏に励まされ背中を押されるのはここから来るのだろう。

マサルも天才という点では同じなのだが、彼は「体系」に沿いながら、そこに穴をあけることで、新しいものを開拓していこうとする方だ。それは人間の中での「音楽」の進化につながる大事な作業だ。もちろん、「体系」を学んできた亜夜は彼にも共感を覚え、彼のおかげで音楽の楽しさを取り戻す。しかし、それを超えて「体系」を壊す風間塵が、亜夜の完全な復活には必要だったのだ。

結局のところ、音楽は人間社会の中では、「体系」ありきの存在だ。けれどもその「体系」に収まらない、音楽の本質が確かに存在すること。そしてそれは何も特別なことではなくて、生活の中にも世界の隅々にもしみとっているということ。その「音楽」を確かに聴きとり、私たちにしっかり伝えていく音楽家がいるということ。この本はそれを真っ向から描ききった作品だと思う。

ところで、本好きして、やはり気になるところは課題曲の『春と修羅』。さっそくYoutubeの方で聴いてみた。映画で実際に演奏された「マサルバージョン」や「風間塵バージョン」まであったが、やはり、ここは「明石バージョン」だろ!と聴いてみた。

初めて聴く曲だが、思った以上に優しい静かな曲だった。と、思ったら「風間塵バージョン」では急に激しいカデンツァが!!ああ、こういうことだったのか、と鳥肌が立った。 

本を読んで、実際に音楽を聴いて、また音楽のすごさを知ることができた。私はピアノを少し習っていたが、もう全く弾いていない。たまにはちゃんと弾いてみようと思った。

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