読書感想文⑦「恋も仕事も日常も和歌と暮らした日本人」

読書感想文

浅田徹 「恋も仕事も日常も和歌と暮らした日本人」

 2019年に淡交社から発行された和歌に関する本だ。小倉百人一首に関する本はいくつか読んできて、もう少し、それ以外の和歌も知りたいな、と思っていた時に出会った本だ。結論から言うと、ちょうど今の自分に合った水準の内容であった。簡単に紹介したいと思う。

 平安時代の和歌、といえば百人一首にも多数見られるように「恋の歌」のイメージが強い。和歌は貴族同士が想いを綴って送り合うための手段であった。実際に言葉を交わす前、もっと言うならその人の姿をみる前から、和歌を通した交流がまず始まる。男性がラブレターとして送った和歌に女性が返歌をする。顔は見えずともその歌から「風情を知る」相手かどうかを見極める。この風習からは、直接的に相手を愛するというより、一人で恋の気持ちを高める時間の方が長い印象を受ける。だからとても想像力が高く雰囲気を大事にしてきたのだと思う。けれども、やっとのことで想いを遂げた後に、翌朝にすぐ和歌を送り合う風習がある(後朝の歌)のをみると、雰囲気を大事にしつつも、手順というか、プロセスを大事にしているのもおもしろい。そもそも『和歌』というそれこそ規制の中でラブレターを書いているのだから、当時「恋」というものはかなりプロセスにこだわった文化の中にあったのだろう。その規制の中で告げる愛なのだから、やはり自己陶酔というか、自分の中でかなり高められた想いだったのではないのだろうか。いわゆる、恋(というプロセス)に恋をしているというか……。相手への想いと一緒に自分の作品、作品が作り出した恋の世界への、ナルシズム的な想いもあるような気がする。

また一夫多妻制の平安時代には和歌を送ることでしか想いを伝えられない場面も多かった。女性はなかなか自分のところに通ってこない男性に和歌を送って、自分の存在をアピールした。

ここでおもしろいな、と思ったのは「恋の歌」が歌う主な内容が「憐れ」であることだ。「こんなに私は待っているのに!」「こんなにあなたを想って辛いのに!」という内容が多い。素直に「会えて嬉しい!」や「大好き!」とは伝えない。「憐れ」の方がより強い感情を伝えられるのだろうか。ここにも前述した「ナルシズム」が見えるような気がしてくる。

ところで、この本では恋以外の和歌も多数紹介されていた。当時の人達は友人に「一緒に庭の花をみましょう」という内容も、いちいち和歌にして送っている。(またこれも、こんなに綺麗な花を誰も見てくれないのです、という「憐れ」を強調した誘い方だ。)今ならメッセージアプリを使って、何の規制もなく送っているが、当時はそれを和歌という方法で伝えていた。規制がある分、面倒に思えるかもしれないが、逆に楽しそうでもある。文学や、芸術を通して想いを伝えあえるというのは、それだけお互いに「共通認識」が多いことだ。特に字数制限がある和歌では、一つの言葉が含む「共通認識」が非常に大事になってくる。例えば、「涙の流す」ことを「袖が濡れる」と言い換える表現をひとつ例にあげてみる。この表現は和歌の中でよく使われてきた表現だ。涙そのものを書くのではなく、涙をぬぐった「袖」で表現をする。その「濡れる」という表現からまた飛ばして「海」や「船人」が出てくる。「海の高波のせいで袖が濡れている」と歌った和歌は、「あなたを想って泣いている」という内容だ。このような比喩表現は、送る側も受け取る側もお互いが「袖」に対して「涙」を連想する共通認識があるからこそ伝わる。

他にも中国の故事、万葉集の歌を知らなければ伝わらないパロディを用いた和歌もある。知識の共有が自然となされていて、そこに自作の「風流」を入れることは、きっと楽しかっただろう。(私たちも、メッセージを送るときに、「それは~やろ!」「時を戻そう」「実質ゼロカロリー」など、テレビで聞く芸人のフレーズを、受け取り側もしっていることを前提に使用している。この感覚に近いだろう。)

他にも和歌を即席で作って発表する歌会の話や、「定数歌」(百首歌、五十首歌)の話も面白かった。特に「定数歌」はすでに「お題」が決まっており、一人で100首なら100首、そのお題に合わせて歌を詠む。お題には大きく「春」「夏」「秋」「冬」「恋」「雑」などがあり、「春」の中に「立春」「春雨」「藤」などのお題が設けられている。ここで面白いのが「恋」のお題で「初めの恋」「旅の恋」「方思ひ」などと具体的にあげられている。これはたとえば歌人が「旅の恋」をしていなくても、お題なのだから歌わなくてはならない。「老年の恋」という題では、若者も想像して、なりきってその歌を歌わなければならない。男性が女性になりきって歌った和歌もあれば、女性が男性の立場で歌った和歌も当然ある。つまり和歌の世界はとてもヴァーチャルな世界である、と筆者は書いている。

なるほど、確かに百人一首でも恋の歌は多いが、実際にラブレターとして使われた和歌は意外と多くない。歌会のお題として歌われた物も多い。確かに、実際に言われると歯の浮くようなものもある。だから「和歌」は当時の人たちの生活に密着していると同時に、現代のドラマや漫画のように、仮想世界を楽しむものだった。私たちも現実世界ではありえないと思いながら、恋愛ドラマや漫画を楽しんでいる。和歌も実際に恋の告白を送られた、というよりは、○○にこんなことを言ってほしい、こんな風に思っていてほしい、ということだろう。現代でも、この俳優にこういうシチュエーションでこんなことを言ってほしい!と、妄想する。そして実際に作品として形にする脚本家がいるし、小説化、漫画化がいる。それはプロが作るものでなくても、個人や仲間内で楽しむものもある。それらと同じ役割を果たしていたのがきっと和歌だったのだろう。そう思うと、貴族たちの優雅な遊びもぐっと身近に感じられる。

そう考えると、私たちの日々の「妄想」もとても価値があるように思えてくる。しかし、現在は様々なジャンルで形にすることが可能であるため、逆にひとつに絞るのが難しく、創作のハードルはあがっているようにも思える。当時の「和歌」のように教養として、日常生活の連絡手段として、身近でお互いが高めあえるような文学ジャンルがあれば、また面白くなりそうだが……。とは言っても、和歌も貴族たちに限られた文化であったし、その中でも全員が出来たわけでもない。教養のあるエリートたちの楽しみだったのだから、やはり妄想を作品へと昇華させるのは難しいことなのだろう。きっと文学が育つためには一定の「場」と共通認識を持つ「人」の集まりが必要なのかもしれない。(現代でいうなら「2チャンネル」の文化などはこれに当てはまるだろう。)

いろんなことを書いたが、この本を読んで和歌についてもっと知りたくなった。他の和歌に関する書籍の紹介も豊富なので、和歌について詳しく知りたい人はぜひ手にとってほしい。

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