読書感想文⑤ 上田岳弘「ニムロッド」

読書感想文

 

 「誰かの意図」に支配された世界

 この小説はビットコインについての話だが、実際にビットコインについて書かれない。それもそのはずで、「ビットコイン」はそもそも「存在しない」から書くことができない。 一昔前の近代は「経済」を描写することが可能だった。資本家と労働者、搾取と被搾取の関係、その仕組みは単純で、文学でも「リアリズム」によって可視化することができた。また批判すべき社会秩序も、自分を支配しようとする闘争相手、つまり「敵」も明確であった。しかし、発展し続けた経済は「帝国」を作りだした。搾取が自分よりも遠い「植民地」で行われるようになった。「帝国」は私たちの認識外を超え、普通の人々には把握するのが難しくなった。それでもまだ「世界」はモダニズムという形式の文学で描写が可能であった。

 しかし、現代社会で生まれた仮想通貨は、それこそ「存在」が「認識」の中でしかありえないものだ。だから小説でその実像を描くのはそもそも不可能である。せいぜい小説が描けることはその「認識」があること、そして、それは描写不可能な誰かの「意図」によって作られ、その「意図」によるシステムで成り立っている、ということだけだ。

 脳科学者である養老孟司さんは、「都市化は意識化であり脳化」だと定義している。私はこの「ニムロッド」を読みながら、その言葉が頭に浮かんでいた。描かれる現代社会は全てが誰かの「意図」で成り立つ世界である。ビットコインの価値も誰かが「意図的」に作っている。

 小説でその「意図」に対置されるのが主人公の涙である。この涙は、主人公の感情、意図に関わらずに「自然に」主人公から流れ出るものだ。当然、それすらも病院に行けば名づけられ、一つの症状として管理の対象となるが、主人公はそれをせずに自然に任せている。この涙は、全てが誰かの意図で回る社会の中で、唯一の「救い」として描写される。

 だから田久保紀子も荷室仁もそれに惹きつけられる。この二人は「意図」の恐怖をよく心得ていて、「意図」が全てを支配する社会に「病んでいる」人間として登場する。

 紀子について。紀子は子を中絶して以前の夫と別れた。子をおろした理由は最新技術で染色体に異常を見つけたからだ。『妊娠』『出産』は、本来では人間の意図を超えるものであった。養老孟司さんの言うように、女性の身体は常に「どうしようもない」生理現象が起こる。紀子の胎児に染色体の異常があったのは、それこそ自然の偶然で、「どうしようもない」ことだった。しかし、それを「わかる」社会になってしまった。紀子が言うように、現代社会は「全知」だが「全能」ではない。その染色体異常をなかったことにはできないが、それをわかってしまう社会だ。わかってしまったからには、『意図的に』判断を下さなければならない。「社会の枠から外れた子」を産むのか中絶するのか……。(当然、この「社会の枠」も「意図的」に作られたものである。)

 本来、自然であった領域、神が決める領域であった人の誕生を、彼女は結局「意図的」に排除することを選んだ。彼女はこの時点で自分が「人間の領域を超えてしまった」と認識している。

 荷室仁について。題名である「ニムロッド」を名乗る彼は「駄目な飛行機」に興味を示す。「駄目な飛行機」とは、紀子が超越してしまった「自然」とは違い、もう作られることがない、「もともと意図して作ったのに、結果失敗したもの」だ。彼が愛着を示すのは、飛ぶことを意図したのに飛ばない飛行機たちだ。どんなに立派な意図があっても、失敗は失敗であって、成功を意図した社会には必要がない。だからもう作られることはない。けれども「ニムロッド」はそれに惹きつけられる。これは、彼の意図で書いた小説が賞をとれず、何度も「失敗」と評価されていることにもつながるだろう。「意図」で塗りつぶされた世界で、それでも出てくる価値のない「失敗」に愛着を示すのは、彼がこの社会で救済を求めているように見える。(「価値」がないから「愛着」だけが残る。飛行機も、人も、それしか存在理由を示すことができないから。)

 「桜花」について。最後の失敗した飛行機として紹介されるのが、日本の戦時中特攻用に作られた飛行機である「桜花」だ。最終、紀子はまるで「桜花」に乗ったようなメッセージを残して、主人公の前から消える。「ニムロッド」も「桜花」に乗って太陽へと向かう物語を主人公に送って連絡が取れなくなる。

 主人公の「涙」に依存していた二人は、結局二人とも「桜花」で飛ぶことを選んで主人公の前から消える。ここで大事なのはなぜ「桜花」なのか、というところだ。私は根本的に「桜花」が他の駄目な飛行機とは違うと思っている。なぜなら「桜花」は失敗ではない。「乗ったパイロットが死ぬ」という以外は失敗ではない飛行機だ。そもそも「桜花」は「そういう意図」(パイロットが死ぬ)で作られたのだから、最初の意図としては失敗ではない。つまり、「人が死ぬ」以外は失敗ではない飛行機だ。この「人が死ぬ」というのは、この作品で重要なキーワードになる。

「やがて僕たちは、個であることをやめ、全能になって世界に溶ける。」「すべては取り換え可能であった。」という作品内の言葉があるように、「誰かの意図」が操る現代社会に「個人」は必要ない。その場に応じた価値さえあれば誰でもいい。つまり感情を持つ個人としての『人』は死んでもかまわない。個人が消えても社会は誰かの意図で動いていく。だから「桜花」は現代社会において「失敗」ではない。「個人」を消す、という意味では、むしろ最も必要な飛行機だ。

そして二人はそれを選ぶ。個を消して、意図された社会に溶け込んでいくことを選ぶ。だから対局にいた「自然」をつかさどる主人公の前から消える。

この二人がその決断をするきっかけは、主人公を介して行われたテレビ電話での出会いだと思う。紀子は「ニムロッド」に、自分も「ニムロッド」の文章を読ませてもらっていることを告げる。それがおもしろい、という紀子の「無機質さ」「平凡さ」には違和感がある。明らかに紀子は主人公との会話とは様子が違う。とてもありきたりで平凡な言葉しか言わない。それは「テレビ電話」という無機質を介したものだからでもあり、そもそもこの二人が自分を「無機質」と思っている同士だからかも知れない。(だから主人公に救いを求める)

「ニムロッド」にとって「彼の文章」は、社会的に価値がない、と解っていても、サリンジャーのように、読者を必要とせず「ただ存在する」ものとしては切り捨てられないものだ。だから「自然」である主人公に送っている。それで、自分の価値を保とうとしている。しかし、それを同じような「無機質な人間」である紀子に読まれ、「おもしろい」という平凡な感想をもらうのは、かれにとって『恥』だったのではないだろうか。彼の文章は「必要ないと解っているのに捨てきれない」ものだ。しかし、それは現代社会の「意図」に当てはまらない。それを解っていても主人公にすがっている哀れな姿をつきつけられた気持ちになったのだろう。その恥を実感した彼は、「桜花」に乗って現代社会の中に「個」を溶かしていく。彼は「小説」によって、個を表現し、何かを訴えることをあきらめる。

 紀子も紀子で、この一件の後に主人公との関係を切り捨てる。そして主人公に「すべては取り換え可能」と言い切ってしまう。つまり、恋人としての相手も、性行為の相手も、「あなたでなくてもよい。」と言い切ってしまう。そもそも紀子は主人公を愛していない。先にも述べたように、彼女は主人公の「意図しない涙」=自分が捨てた「自然」にすがっているだけだ。これも「ニムロッド」と同じで、現代社会の「意図」からは外れる。彼女はテレビ電話を通して、「ニムロッド」が主人公に対して求めているものが、自分と同じだと知る。その時点で主人公は彼女にとっての「特別」ではなくなる。同じものを欲する人間がいることを知るからだ。そしてそれと同時に、紀子も自分の「特別さ」を失う。紀子が「すべては取り換え可能」と言ったのは、「紀子にとっての主人公の存在」だけの話ではなく、「主人公にとっての紀子の存在」にもそのままあてはまる。紀子が求めなくても、主人公を求めるものは存在する。それなら「自分には価値が無い」と紀子は考える。そして主人公にすがることが「個の救い」にはならないことを悟り彼女も飛び立つ。

 ざっと考えをまとめてみた。借りていた本を返してしまったので、もしかしたら読み間違えているかもしれないが、読み終えた感想は大体こんな感じだ。この作品の中だけでなく、私たちが暮らしている社会も無機質で、非常に息苦しく閉塞を感じる社会だ。「自分たちを支配している者」がいる、という大きな世界の感覚は確かにある。その一方で現代社会には「自分の運命を切り開け」という言説も同時に存在している。しかし、大きな世界はビットコインのように実態がない。それを相手に人は自分の生きる価値をかけて戦うことができない。初期の資本主義なら資本家を倒せばよかった。目の前の機会を壊せばよかった。とにかく「敵」は明確に実在していた。しかし、現代社会では「支配している何か」の存在だけが感覚としてあるだけだ。まあ、それは確かに紀子と「ニムロッド」のように病んでも仕方がないだろう。

 私は、紀子も「ニムロッド」も自分の人間性を否定しているが、本当は二人の持つ「不安」「恥」「後悔」といったネガティブな感情こそが「人間らしさ」だと思う。二人とも「桜花」に乗って旅立つことを決意したが、紀子が提示したように、大田正一のごとくちゃっかり生きているのではないのだろうか。そして、それはこの社会にとってまったく解決にはならないが、この世界で「人間として病み続ける」のではないだろうかと思う。主人公の涙が流れ続けるように、無機質な顔をして、心の中では人間らしさを求め続けてさまようのだろう。

 長くならないうちにこれくらいで終わります。亡くなられた大学院時代の教授が喜んで解読しそうだな、と懐かしくなりながら書きました。

 次回からは、だいぶ日にちが空きましたが、また「夕鶴」について書いていきたいです。

 

 

 

 

 

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