俳句①「河東碧梧桐と高浜虚子」

俳句

河東碧梧桐と高浜虚子」

俳句を習うのは中学3年生だ。松尾芭蕉や正岡子規、与謝蕪村、小林一茶などの有名どころを習う。この中で名前のインパクトが一番大きいのが「河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)」だ。まず生徒たちは読めない。さらに、どうみてもペンネームなのだが、本名が「河東秉五郎(かわひがしへいごろう)」と、あまり変わらないのも印象に残りやすい。

習う俳句は「白い椿赤い椿と落ちにけり」。シンプルな俳句だが、落ちる一瞬の美しさや、偶然のおもしろさ、時が過ぎていく焦燥感など、さまざまな読みができる俳句だと思う。

この俳句は「字余り」の句として習う。「赤い椿」という最初の出だしですでに六文字だ。大人からすれば、そういう句もある、という感覚だが、俳句は「五・七・五」と習ってきた学生にとっては新しく感じることも多いだろう。

俳句が芸術として一派をなすようになったのは、明治時代の正岡子規の登場からだ。彼がどちらかといえば、言葉遊びや洒落でしかなかった江戸時代の「俳諧」を、写実主義という立場から芸術の域に高めた。「写実主義」は写真を撮るように俳句を作る、だと私は認識している。同じ風景でも悲しい時に撮った写真と、楽しい時に撮った写真は違って見える。切り取る角度が違ってくる。(例えば、空と花と鳥を撮るとしても、花の美しさに焦点をあてる人もいれば、鳥が一匹孤独に飛んでいることを強調するカメラマンもいる。)俳句で同じ風景を写真で切り取るように描いても、そこに現れる感情は様々だ。「かなしい」と言わなくても、情景だけで「悲しい」は表現できる。平安時代の紀貫之の句ように、あえて大げさに感情を込めなくても、自分の見たまま、その瞬間の生(なま)の感情を込めるのが、正岡子規の俳句の作り方だ(と思っている)。

そんな正岡子規は「字余り」「字足らず」は許容範囲であり、むしろ新しい短歌や俳句への第一歩だと捉えていた。引用する。

「三十一文字と定め、十七文字と定めたことはもともと人間が勝手につくった『おきて』であるから、それに外れたからといって日頃は用いるべきではないというのは笑うべき偏見である。『字余り』という文字を用いるからこそこの偏見も起るのである、試みに「字余り」という文字の代りに三十二字の和歌、三十三字の和歌、十八字の俳句、十九字の俳句というような文字を用いれば『字余り』は字余りではなくて一種の新しい韻文となることを十分知ることができる。新しい韻文を作るのに何の例外ということがあろうか。」(『字余りの和歌、俳句』より)

定型は当然定型として踏まえながらも、「おきて」ばかりを強調し、字余りや字足らずの俳句を低評価に見る風習には異を唱えていたのが正岡子規だった。

さて、そんな彼の弟子として名をはせた「河東碧梧桐」が字余りの俳句を作るのは何も不思議ではない。彼は破調の句をいくつも生み出して、種田山頭火のような自由律俳句へと、俳句の歴史をつなげていく。

そんな碧梧桐と対をなして語られるのが、子規の最も有名な弟子といってもいい「高浜虚子」だ。

「高浜虚子」といえば、正直、私はパッと思い出せない。授業で扱ったことがない、というのが一番大きいのだろうが、

「遠山に 日の当たりたる 枯野かな」

「流れ行く 大根の葉の 早さかな」

と、いうように、彼の句は「王道」という印象が強い。子規のいう写実主義をかなり完璧に俳句として作ったと思う。(勉強不足なのであくまでも印象でしかないのだが。)

ともかく師匠である子規にも「虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐は冷ややかなること水の如し」と評されているので、新しい改革の道を進んだ「河東碧梧桐」と、王道を極めた「高浜虚子」はそもそも根本的に「芸術」の在り方の考えが違ったのだろう。

(ちなみに夏目漱石を描いた四コマ、『先生と僕』にもよく出てくるので、虚子の人柄はマイペースでユニークな人だったと思っている。)

私はこの二人のことを知った時、おなじ師匠を持つ弟子同士だが、その後も違う派閥に分かれて、きっと仲が悪かったのだろう、と思っていた。

けれども1937年、河東碧梧桐が亡くなった時、追悼句として、高浜虚子はこのような俳句を残している。

「たとふれば独楽のはぢける如くなり」

そして「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」という言葉も残している。ああ、彼らは「ライバル」だったのだな、と理解できた。同じ土俵で、お互いの芸術性を主張し合って、自分の信じる道を追求した二人にふさわしい句だ。

当然、お互いのことがわずらわしい時もあったであろうが、自分が亡くなったとき、このような句を残してくれる存在は羨ましい限りだ。生徒たちもそんな存在に出会って、大事にできたらな、と思い、この句は紹介するようにしている。そして私もそんな存在に出会えるように、自分の世界を広げていかなくては、と思っている。

ところで、作家同士の追悼句や詩には、当たり前だが、素晴らしいものが多い。私は『いぼ』の作者である「草野心平」が、悪友であり、共に酒を飲んでは太宰治をいびっていた(笑)「中原中也」が亡くなったときに詠んだ『空間』という詩が好きだ。

中原よ

 地球は冬で寒くて暗い

ぢゃ

さやうなら

この悲しみを歌いながらも、あっさり具合が草野心平らしいと思う。また「この世」じゃなくて「地球」という言い方もおもしろい。こういう様々が作家たちの追悼関係を集めた作品集はないのだろうか。読んでみたいな、と思う。

更新がだいぶ空いてしまいましたが、2020年もどうぞよろしくお願いいたします。次回は『蜜蜂と遠雷』(恩田陸)の感想など書いてみようと思います。

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