「今年もいぼがえるを迎えて」
『いよう ぼくだよ 出てきたよ いぼがえるだよ ぼくだよ』
中学一年生、日本語最初の授業で習うのは草野心平の詩『いぼ』である。この詩を教えるとき、私は一番明るいピンクのチョゴリ(朝鮮の民族衣装)を着る。もう私の年齢には合わない明るさだと解っていても、毎年かならずピンクのチョゴリを着て生徒たちの前に立つ。それは私なりにある決心をしているからである。
詩、『いぼ』はいぼがえるを擬人化し、冬眠から目覚めたいぼがえるの目線から「春の美しさ、春の生命感」を歌い、それが到来した「喜び」を歌った詩だ。短い詩ではあるが、単純な言葉でいぼがえるの素直な喜びがつづられている。
『いよう ぼくだよ』の親し気な挨拶でこの詩は始まる。『いよう』とは気心が知れた相手に対する挨拶であり、『ぼくだよ』という呼びかけから、この『いぼ』はすでに「春」を何度か経験しているいぼがえるであることがわかる。つまり、このいぼがえるは「春」の美しさ、明るさをすでによく知っている。そして春の暖かさ、輝きを知っているからこそ土の中での冬眠はいっそう辛かったことが想像される。だからその感情は詩の中で『けっとばされろ冬』という子供らしくも強い言葉で表現される。長い間暗く冷たい土の中で独りぼっちだった「いぼ」が、ずっと待っていた暖かく明るい「春」に再会できた。それは初めての出会い以上に心が弾むような喜びだろう。
私はこの詩を教えるとき、朗読をメインに授業をすすめる。最初の授業ではいろんな読み方を生徒たちにさせてみる。元気よく読んでみたり、ひそひそ声で読んでみたり、泣きながら読んでみたり…。「さて、どの読み方がこの詩に合うかな?」生徒たちは「大きな声で元気よく!」と答える。そこから内容を読み解いた後は「元気よく」だけでなくもう少し細分化して読みの指導をする。『けっとばされろ冬』はグッと力強く勝気に読ませる。そして最後の春に対する呼びかけ『春君。』は本当に会いたかった相手に会えた嬉しさ、親しみを最大限に込めるように指導する。
そこまで進めたら一人ずつ朗読させる。中学生になって初めての朗読。教室の中にはそれぞれの生徒がそれぞれの読み方をする。大きな声で堂々と読む生徒。恥ずかしそうに読む生徒。嬉しそうに感情をこめて読む生徒。緊張して声が震えている生徒。個性はいろんな生徒たちが教室に集まったが共通点がある。それはみんなが一生懸命なこと。生徒たちは朗読だけではなく、目まぐるしい一つ一つの新しい出来事、「新しい中学生」と言う生活に一生懸命だということ。そんな生徒たちが精一杯の親しみを込めて『春君。』と呼びかける。
その嬉しそうな呼びかけに、私はふとある考えが浮かんだ。
この詩はいぼがえるが春の到来をよろこぶ詩だが、こんな風にいぼがえるに呼ばれたら「春」はとても嬉しいのではないのだろうか?そこから私は「春」について考える。そもそも「春」とは一体何であろう?「春」を規定するものは何であろう?「春」はいつから春で、どうなれば「春」なのだろう?もしかすると「春」が「春」であるのは「いぼ」の呼びかけがあるからではないだろうか。
『あっちでもこっちでもぶつぶつ何か鳴きだしたな』この詩では主人公の「いぼ」以外にも同じように「春」を喜ぶ仲間の存在が描かれている。いぼがえるだけではない。『きんきんする』匂いをさせている草花、『まぶしい』太陽の光、『真っ青』な空と『雲』、そういう一つ一つの小さな事象が集まって「春」は成り立っている。つまり、「春が来るからいぼがえるが出てくる」という文は逆に「いぼがえるが出てくるから「春」になる」と置き換えられる。そう考えると、いぼがえるが「春君」に会えて嬉しいように、「春君」もいぼがえるにまた会えて嬉しいはずだ。
この考えをウリハッキョに当てはめてみる。朗読している生徒たちはまるでいぼがえるだ。じゃあ、春は誰だ?
「今年も新入生がウリハッキョ(学校)に入学した。」学校の立場からみるとこれは当たり前の言い方だ。けれどもこれは「学校」がそもそもあることが前提にある表現だ。しかし「学校」が存在できるのは、当たり前のことだが、毎年入学する新入生がいるからである。生徒たちいなければウリハッキョは存在することができない。生徒のいない学校は存在する理由がない。そして私がこの教壇で教えられるのも、当たり前のように「ソンセンニン(先生)」と呼んでくれる生徒がいるからだ。
その時になって私は気がついた。「ああ、私は君たちに出会えて本当に嬉しいんだ。」ということに。これはただ相手に会えただけの嬉しさではない。私が私でいるための「嬉しさ」だ。私を「ウリハッキョのソンセンニン」と規定してくれるものとの出会いだ。
それを思ったときに、私は常に「春」の気持ちを忘れないようにしようと思った。毎年同じことを繰り返し教えていると、どうしても迎える側の感動は薄れていく。「今年も中学一年生が教室にいる」ということが当たり前になってしまう。生徒たちの「一生懸命」もよく見慣れた当たり前のものになってしまう。けれども生徒たちからすると、中学生になった「一生懸命」は新しいものでもある。私は毎年この新しい気持ちと「再会」を繰り返している。毎年「いぼ」を教えるとき、教室はこの新しくも懐かしい気持ちでいっぱいになる。その教壇に立つということは、それを誰よりも感じられるということだ。私はこのウリハッキョに入学した生徒たちに会える当たり前の嬉しさを毎年いっぱいに感じたい。どんなに辛い「冬」でも生徒たちが呼ぶ限り、ソンセンニンとして立ち上がって「けっとばす」ぐらいの決意を新たにしたい。
そんな気持ちから今年も「春」のチョゴリを選んで着る。「春」と自ら名乗るのは恥ずかしいし、ガラでもないと解っていても、この授業の間だけは『春君』と呼ばれるのに誰よりもふさわしくありたいからだ。
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