茨木のり子「自分の感受性くらい」②

茨木のり子「自分の感受性くらい」

茨木のり子「自分の感受性くらい」②

『「自己責任」と「時代のせいにはするな」』

 「自己責任」という言葉が出てきたのは小泉政権が発足した2000年ごろだった。調べてみると2004年には流行語大賞のトップテンに入っている。よく使われるのはジャーナリストたちが武装地帯に赴き拉致され、日本政府に解放の代価として身代金などを要求してきたときである。危険な地帯だと解っていて自らそこに赴いたのだから、身の危険にさらされてもそれは「自己責任」で、仕方がないだろう、という言説だ。

 この「自己責任」という言葉によって、様々な社会問題が「自己」の問題として考えられる風潮が生まれた。貧富の格差の問題も、成功してセレブになった人たちが勝ち組で、貧困層は社会の競争に負けた負け組。負けた人間が負けた理由は何か、その「自己」が弱く、人生のうちで何かを失敗した「責任」だ、という考え方が当たり前のようになっている。その負け組にならないように、自分の責任で「よい大学」に入り、「よい職場」に入り、そのために「よい高校、よい中学校、よい小学校」に入り…。それができないのは「自己責任」だ、という考え方が教育をとりまく環境にも蔓延している。実際、中学の生徒たちはまだ大して勉強が好きでもないのに、漠然と大学に行って…就職して…という考えを持っている。何になりたい、という気持ちはないのに将来のことを聞くと、「大学」「就職」という単語が一番に出てくる。なんだかとても悲しい気持ちになる。(それこそ有名国立大学に入って有名企業に就職した後も競走は続くというのに…)そして職場で過労自殺をすればそれもその「個人」の心が弱かっただけ、とこれも「自己責任」になる。老後の問題もいまのうちに考えてお金を貯め、生命保険に入り、健康寿命を延ばすために、運動を勧め、それができなくて孤独死するならそれも「自己責任」。虐待の問題もその「家族」や「親」の「異常性」にだけ焦点があたりがちだ。

 私はこの状況はただの「国」、「政府」の責任放棄だと考えている。全ての問題を「自己責任」で片づけられるなら「社会」は何もする必要がない。国の制度や、社会福祉が十分でない、という問題があるにも関わらず、その状況で、それでも上手くやっている人たちが勝ち組で、そうできない人たちは負け組、そのような人たちは実力がなく勝負に負けただけで、幼い頃から実力を養ってこなかった、という個人の「自己責任」の問題にすり替えられている。

 そしてこうなると誰もが、自分がつまずかないように、を最優先に考える。自分が負け組にならないように、と願いならが自分より劣っている人間を見て安心する。そこまで行かずとも、全体的に自分のことに必死な社会になる。その中で隣の人を助け思いやる気持ちが育つだろうか?教育の現場で、言葉で言うのは簡単だろうが、もっと生きている社会の実感として、肌の感覚としてはどうだろうか。

 前ふりが長くなったが、茨木のり子の「自分の感受性くらい」には

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

という連がある。これだけを見ると、どんな時代でも「個人」さえがんばればどうにかなる、という現代日本の「自己責任」と同じ言説にも読める。しかし、この作品は全く別の言説で書かれた詩だ。

 この作品を教えるとき、おなじ茨木のり子さんの作である「わたしが一番きれいだったとき」を一緒に紹介する。この作品は「わたしが一番きれいだったとき」、つまり青春時代と言われる10代の頃を戦争と共に過ごしたことを書いた詩である。(作者は19歳で終戦を迎えている。)この詩では「街々はがらがらと崩れていって」「まわりの人達が沢山死んだ」「男たちは挙手の礼しか知らなくて/きれいな眼差だけを残し皆発っていった」と、戦争の異常さ、悲惨さを先にあげる。そして、作品は実際にその時代を体験した作者の怒りへとつながる。

わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 作者は当たり前のように過ごすはずだった青春時代を戦争によって奪われた。その怒りを原動力として新しい社会、新しい価値観を求めて歩き出した。「ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた」という力強い表現が「生」を求めて歩き出す作者の力強いイメージとぴったり重なる。(作者のはっきりした顔立ちからもその芯の強さが伝わってくる。)

 そして最後に

 だから決めた できれば長生きすることに

年とってから凄く美しい絵を描いた

フランスのルオー爺さんのように ね

という決意でこの詩は終わる。そして実際に芯の通った優しく強い詩をたくさん残した。その中の一つがこの「自分の感受性くらい」である。

戦争中に全ての娯楽が消えていった。音楽も芸術も統制された。恋を語ることもできなかった。それは作者にとって「さびしかった」ことであった。これは作者だけではなく、当時の多くの青年たちの正直な感情(というより感覚)だったのではないだろうか。しかし、戦争中だからしかたがない。これが当たり前だ。という時代の言説によってその感情は押し潰された。そして終戦を迎えてみて初めてその感情を爆発させたのだ。「そんな馬鹿なことってあるものか」と。しかし、亡くなった人も物も青春も、もう戻っては来ない。戦時中だから、とあきらめていたものは取り返しがつかないほど破壊されてしまった。作者の後悔はどれほどだっただろうか。はっきりとした顔立ちの少女は「戦時中」という言葉によってどれほど縛られてきただろうか。だから作者は現在、そして未来へと決意を強くする。こんな時代だから仕方がない、と「時代のせいにはするな」と。

つまり、現代に当てはめて読むと、全ての問題を「自己責任」と言われる時代だから、と競争社会の「異常さ」「辛さ」に目をつむるな、ということではないだろうか。よく、大人たちは言う。「昔は学生時代にもっとバカなことして遊んでいたけれども、今の社会ではしっかり勉強していい大学に入らないと食べていけませんものね。」と。もちろん、勉強せずに遊べ、と言っていているわけではないのだが、私たちは時代のせいにして子供を、そして自分をも縛っていることが多いのではないのか。人間として「わずかに光る尊厳の放棄」をしているのではないのか。

 作者は戦時中という言葉に縛られ、いろんなものを奪われて「さびしかった」。だから、もう二度とこのような思いはしないぞ、と立ち上がった。おかしい、と思うものには「おかしい」と声をあげ、今の時代を当たり前だと思わず、自分の感性を信じ、人間らしい生き方を模索し続けた。それは全て「詩」という形でこの世に生まれ、現代の私たちの心に今でも優しく響いている。

 現在、私たちの住む日本社会では「政治」が「個人」と全く切り離されてしまっている。政府がいくら不正を働いても「無関係」に個人の日常はすぎていく。どんな法案が通っても関心を持って行動する人間は少ない。社会がどうなろうと、そこで上手くやれなかった「個人」の問題にすりかえられる。これからより一層問題をかかえたひどい社会になり、そこでつまずく人間が増えてもそれは、つまずいた人間の「自己責任」として片づけられるだろう。消費税はあがり、外国人労働者は増える。少し考えただけでも生き辛くなる、というのは想像できるが、その中でも上手く、負けないように、自分の責任だけを考えて生きていけ、というのだろうか。

「社会の問題」を直視して作品に挑んで亡くなられた作家や漫画家など、ふとこの方が現在の世界を見たら、どんな作品を生み出すだろう、と考えることがある。茨木のり子さんならきっと、嘆きを優しさでくるんだような、暖かくも厳しい作品を書きあげるだろうな、と思う。残念なことにそれは叶わないので、中学生の頃から彼女の詩に励まされてきた私たちの世代が、そんな嘆きに戦って「時代の責任」を負っていくべきだろう。

次回は、「自分の感受性くらい」の詩からは少し離れて、茨木のり子が深く関わりを持った朝鮮との関係について書きたいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました