宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」①

宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」

「朗読を通してみるゴーシュの心理」

 

日本語授業の「全文通読」の時間は楽でもあるがしんどくもある。前日の授業準備は楽だ。教材によっては読むだけで45分を埋めることができる。しかし、実際に読んでいる時間はなかなかの苦行だ。45分間、字を追って声を出し続けなくてはならない。たまにつまずいたり、声が裏返ってしまえば学生達から嘲笑をもらう。一日に全文通読の授業が続けば声は枯れ、舌もうまく回らなくなっていく。午後の授業などでは寝だす生徒たちが現れ気がめいる。当然、少しでも物語に引き込むために感情を込めて読む。主人公の心理、登場人物それぞれの声色、美しい描写…、様々なことに配慮して読む。そのように生徒たちの前で意識して朗読すると、黙読ではわからない新しい発見がある。

 

「セロ弾きのゴーシュ」は1年生が初めて習う長編小説だ。内容は、楽団で一番下手なセロ弾き、ゴーシュの元に「三毛猫」「かっこう」「小だぬき」「野ねずみの親子」がやってきて、彼らとの交流をとおしてゴーシュが成長していく物語だ。1年生はまずその長さに圧倒されて、これを読み切るのか、と読む前から疲れ顔だ。(本人たちは聞く側だというのに。)

 

今回、私が朗読をして気づいたことは、「三毛猫」と「かっこう」に対するゴーシュの心理の差である。事象だけでみれば、ゴーシュの元にきた「三毛猫」と「かっこう」はどちらもしつこく迫り、ゴーシュの怒りをかい『生意気だ』と怒鳴られて、家から追い出される、という基本は同じ流れである。しかし、私は「かっこう」へゴーシュがわめくシーンは、明らかに「三毛猫」のときより早口になった。焦ったような、落ち着きのない読み方だ。

 

それはゴーシュの心理を追えば当たり前のことであった。ゴーシュの両者に対する感情は同じものではない。一見、両者に対する「怒り」と見える感情は「かっこう」に対しての感情としては正しくない。それは最後のゴーシュの『ああ、かっこう。あの時はすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。』という後悔を含んだ独白からも読み取れる。

 

ここで、注目したいのは、「かっこう」への違和感から怒鳴る前、ゴーシュの心理を客観的にのべている語り手がいることだ。

『弾いているうちに、ふっと何だかこれは、鳥の方が本当のドレミファにはまっているかな、という気がしてきました。どうも弾けば弾くほど、かっこうの方がいいような気がするのでした。』

この語り手はもちろん作品の最初から終わりまでを知っている作者自身なのだが、この語り手をゴーシュは否定する。『えい、こんなばかなことをしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか。』そして『ゴーシュはいきなりぴたりと、セロをやめました。』と続く。このシーンはゴーシュが心理を「正しく」読まれることへの反抗であり、言い換えれば、ゴーシュ自身が自分の心理と向き合うことを拒否している。もっと単純に言い換えれば、自分より下等とみなしていた「かっこう」の方が上手いという事実を「認めたくない」のである。

 

授業では「三毛猫」への怒りと「かっこう」の怒りはどのように違うのか、という質問を投げかける。生徒たちの中からは「嫉妬」、「悔しい」といった単語が出てくる。客観的な読者の立場から見ればそれは明白である。けれども当の本人であるゴーシュはそれを簡単に認められない。そして、これは生徒を含めたすべての読者たちが共感できるところだ。生徒たちも小学生の頃から部活や習い事、勉強など、自尊心を持ってやってきたことがある。そして自分の無力さ、他者への嫉妬、はすでに程度の差はあれ経験済みである。また、それを簡単に自分で認められないことも。そこにどれだけ感情移入して読めるのか、それがこの部分の鍵になる。

 

私自身もゴーシュの気持ちは多いに理解できる。だから、私の朗読は早口になる。じっとしていたら呑み込まれそうな自分に対する情けなさを追い払うため、そして少しでも「かっこう」との会話を速く終わらせたいために。

 

しかし、その(本来は自分に対する)苛立ちは結果的に「かっこう」を傷つけることになってしまう。ゴーシュと「かっこう」は最後までコミュニケーションがうまくとれない。ガラスに激突する「かっこう」をゴーシュがいくら助けようとしても、「かっこう」はゴーシュを信じてくれない。自分の非から目を逸らし、当たり散らすゴーシュを「かっこう」は絶対に信じない。この結末は「かっこう」が肉体的に傷ついたと同時に、ゴーシュの心にも傷を残す。この傷は次の「子だぬき」「野ねずみ」への態度の変化につながるが、この時点でまだゴーシュは気づいていない。

 

気づくのはやはり最後のシーン。音楽会で自分の努力が認められて、自分に自信が持てたとき。『かっこうの飛んで行ったと思った遠くの空をながめながら』の前述した独白の場面である。自分を認められない苛立ちは他者も自分も傷つける。その痛みを自覚するのはだいぶ後になって自分に余裕ができたときだ。きっとゴーシュは「かっこう」に二度と会うことはないし、面と向かって謝ることは一生できない。成長には消せない後悔が伴う。悲しいことに、このラストシーンもおおいに共感できてしまう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました