魯迅「故郷」①

魯迅「故郷」

故郷①

「故郷」は変わってしまったのか

 作品について語るまえに、「魯迅」という作家について書こうと思ったが、どうもWikipediaを調べれば出てくる知識なので、さっさと作品に入ろうと思う。

 物語は主人公の「わたし」が二十年ぶりに「故郷」へと帰るシーンから始まる。船で海を渡って故郷へと辿りつくのだが、天気も悪く陰鬱な描写が続く。「わびしい村々が、いささかの活気もなく、あちこちに横たわっていた。」と描かれる故郷に対して、「わたし」は「覚えず寂寥の感が胸に込みあげ」てくる。

「わたし」は故郷がさびれて廃れてしまった、と一時は思うのだが、それもすぐに否定する。なぜなら「その美しさを思い浮かべ、その長所を言葉に表そうとすると、しかし、その影はかき消され、言葉は失われてしまう。」からである。つまり、「わたし」は故郷のことをよく覚えていない。なんとなく、美しかったような気がする、という感覚が残っているだけである。

このある意味での「無関心さ」は後にこの作品の核心に繋がってくるのだが、まあ、誰もがこの「無関心さ」を持っているだろう、と思う。私たちも「故郷」でなくても、「幼少時代」に対してはそういう感覚を持っている。なんとなく楽しかった、という感覚はもっているが、その楽しさが「何」で出来上がっていたのか、自分をとりまく「世界」に対しては「無関心」だ。それを許されているのが「幼少時代」だろう。

とにかく、「わたし」は故郷の変化から目を背け、次のように「自分に言い聞かせた」。(ここで「言い聞かせた」という言葉を使っているのも面白い。物語の冒頭の「わたし」はとにかく曖昧で、「世界」を見ることを拒んでいる。)「わたし」が寂寥を感じるのは、「自分の心境が変わっただけだ」と。「わたし」は家を売り払って引っ越しをするために故郷へと帰ってきた。それも家を保つための財力がないために売り払うのである。家を手放さなくてはならない、という「寂しさ」が、故郷を「寂しく」見せているのだと、言い聞かせる。

ここで生徒たちに質問してみる。本当に故郷は変わったのか、それとも、「わたし」の寂しいという感情がそう見せているのか。意見は割と半分に分かれる。当事者である「わたし」もここでははっきりと解っていないのだから、生徒たちが解らなくて当然である。ただ、ここで疑問を持たせるのは重要だと思っている。結局のところ、この作品は「わたし」が「故郷」をどう見て、どう向き合うのか、が主題になる作品だ。冒頭部分では「わたし」が、「故郷」を曖昧にみているということが重要だ。

「わたし」が家につくと、「母」と甥の「宏児(ホンル)」が迎えてくれる。「わたし」の家は親戚も含め、大家族が暮らしているような大きな家だったのだろう。そして「母」の口からついに「閏土」の名前が出てくる。この名前を聞いた瞬間、「わたし」にはある光景が突然、思い浮かんでくる。

「紺碧の空に金色の丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で、見渡すかぎり緑の西瓜が植わっている。その真ん中に十一、二歳の少年が、銀の首輪をつるし、鉄のさすまたを手にして立っている。そして一匹の「猹」を目がけて、ヤッとばかり突く。すると「猹」は、ひらりと身をかわして、彼のまたをくぐって逃げてしまう。」

この幻想的な光景の描写は、物語の後半にも何度かでてくる非常に重要な描写である。少し話を飛ばすと、この「閏土」という名前を聞いたことで、「わたしはやっと美しい故郷を見た思いがした」のである。つまり、この「閏土」のいる景色は「わたし」にとって「美しい故郷」の象徴である。この記事の最初で言及したが、「なんとなく美しかった幼少時代」が「閏土」という名前によって、鮮明に縁どられて思い起こされた。ああ、「閏土」がいた。「わたし」の「美しい故郷」での思い出は「閏土」によって彩られていた。ちゃんと「故郷は美しかった」と、「わたし」は自信を取り戻すのである。

だから、この「紺碧の空に金色の丸い月が……」は、繰り返し出てくるどのシーンでも「美しい故郷の象徴」として読める。そう思って読むと、物語の後半が深められるので覚えていてほしい。

しかし、この「美しい故郷の象徴」となる風景が、幼い日の「わたし」の空想であり、「幻想」であることにも注目しておきたい。この時点でもまだ「わたし」は曖昧で、言葉をあえて選ぶとしたら、「目覚めていない」状態だ。

次の記事では「わたし」と「閏土」との幼少時代を読みながら、「美しい故郷」について考えを深めていきたい。

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