主張文を書こう④

主張文

主張文を書こう④

身近に考えるための『嘘』

 緊急事態宣言が解除されました。健康に気をつけながら、また新しい生活を頑張っていきましょう。久々の更新になってしまいましたが、「主張文」についてはこれが最後になります。どうぞよろしくお願いいたします。

 主張文を書かせると、大きなことを書きたがる生徒が出てくる。以前にも確認したが、主張文に説得力を持たせるためには、身近な体験から拾って大きな社会へとつなげていくのが重要だ。しかし、好奇心や反抗心や、自分の身近な体験を書く恥ずかしさから、大きな問題について書く生徒が必ず出てくる。例えば、戦争を反対するもの、死刑制度についてや、老人が事故を起こすのが増えたのを理由に、彼らの自動車運転に反対する者……。

 このような主張文が出てくること自体は嬉しいことである。社会や大きな問題に目を向けようとする意志があるし、それについて考えを深めるのは大事なことである。しかし、それをしっかり調べることなく、ただ感情的な論調で語ってしまうと怖いことが起こる。

怖いこととは、例えば、「人を殺した人間は全員死刑にすべきだ」や、「老人の運転は危険なので免許を停止すべきだ」という一つの角度の意見を押し通す主張文が出てくることだ。それらの意見は一方では正しいのかもしれない。けれども、大体そういう主張文を書く生徒はその逆の意見を調べてこない。なぜ、現在そうならないのか、という考えに立って、そうすると何が問題になるのか、誰がどんな不利益を得るのか、と、考えを深めるのことをしないのだ。

こちらの指導不足のためなのだが、毎回なかなか過激な主張文ができあがる。そして頑なに自分の考えを曲げようとはしない。(意地になってしまっていることが多い。)例えば、「例えば、交通事故でうっかり殺してしまった人は?」と聞いても「その人も死刑にすべきです。」と返ってくる。他にも「例えば田舎で独り暮らしの老人の運転は?」と聞いても「それも駄目です。」と返ってくる。もうここまで来ると、聞く耳を持たないし、主張文の内容は変わることがない。

これは主張文に限った話ではない。ディベートの授業をしたときのことだ。「コンビニエンスストアは24時間営業を廃止すべきだ」という論題で、肯定派と否定派に分かれて議論を行った。肯定派が「夜中にコンビニを狙った犯罪が発生するので廃止すべきだ」という主張を行い、コンビニに強盗が入り、大学生のアルバイト店員が負傷した例を資料としてあげた。その時、否定派が返した反駁は「そもそも夜中にアルバイトをしていたその大学生が悪い」だった。中学生が行うディベートなので、当然感情的にもなっていたし、どうにか何か言おうと必死に出た言葉だったのだろう。

けれどもこれらの無責任な発言に、私はいつも引っかかってしまう。怒りに近い寂しさが心の中に沸いて悔しくて仕方がなくなる。「悪いこと」を「悪い」と言ってしまうのは簡単だが、どんな時にでもそこに想像力が欠如してしまうのは良くないことだ。

特にこれは、私たちの場合に当てはまることが多いからだ。例えば、朝鮮学校の制服であるチマチョゴリが切り裂かれる事件が90年代から何件か続いたが、これについて「チョゴリを着ていた女学生が悪い」という論調がある。(一般人やネトウヨでなく、日本を作っている政治家たちの考えとして。)どこに民族衣装を着ていただけで切りつけられる国が他にあるだろうか。例えば着物を着ていて外国で切りつけられても同じことを言うのだろうか。このように、一方から見ればそれは「正論」として受け入れられるのかもしれない。しかし、それを言われた生身の人間からすれば、とんでもないお門違いで、暴言で、苦しくて、傷つけられることにもなる。だから、そう言われる経験のある人間として、常になにごとにも多角的に考えなければならないし、想像力を働かせて、相手の立場を考えなければならない。これは生徒たちに教える時も同じことだ。相手を考えるとき、「無知」だからといって許されないことも多くある。自分と関係のない遠くのことだからといって、「無知」のまま「無責任」のまま何でも言いたい放題に言ってはいけない。(この頃のSNSでの誹謗中傷が問題になっていることと同じである。)これは民族が違うから、通っている学校が違うから、とは全く関係ない。私たちはいつだって加害者になる危険性をもっている。

さて、とは言ってもこれを生徒たちにそのまま話したところで伝わらないのも現実である。そこで私はこういうことがある度に、『劇場』を開くことにしている。いや、何かというと、ちょっと嘘をつくのである。

例えば、「さきほど、負傷したのは夜中にアルバイトをしていた大学生が悪い」という発言がありましたが、実は私の中学の同級生に同じようにアルバイト中に負傷した友達がいます(嘘)。その子は貧しくて、兄弟も多かったので、自分の学費だけは自分で払おうとバイトを頑張っていました(嘘)。昼間は弁護士になるために必死に勉強をして、夜にバイトをしていました(嘘)。その子の命は助かりましたが、今でも怖くてその時のことを思い出して何もできなくなることもあります(大嘘)。もし、その子が今の発言を聞いたら、どう思うでしょうか? 先生はその子の友達として腹が立ったし、悲しい気持ちになりました(涙目)。」

と、いうことである。ここまですると、生徒たちはシーンと黙る。そこで「無責任な発言は誰かを傷つけることになるかも知れない。悪気はなかったと思うけれども、これからは気をつけてほしい。」としめる。

他にも『劇場』での私には、「過労からくる不眠のため、交通事故を起こし人に怪我をさせてしまい、今でも後悔で苦しんでいる親戚」がいるし、「バスも通らない田舎で親から受けついだ畑で今でも元気に野菜を育て、給食として小学校に車で配達している同級生の祖父」がいる。(当然、もし事故を起こしたら罪は罪だが……)

自分でも、臭いな、と思いながら迫真の涙声で演技をするのだが、いま上げた『劇場』の登場人物が「現実にはいない」と言い切れるだろうか? 全く同じでなくても、似たような境遇の人達は多いのではないだろうか。その人たちが教室での発言を直接聞くことはないとしても、それを聞き逃してはいけない、と思っている。正直、生徒たちにどれぐらいの効果があるかはわからない。けれども、「私の友達、私の知り合い」というだけで生徒たちの集中度は各段に違ってくる。

結局のところ、想像力とはそういうことなのだろう。「自分のこと」として、「自分の身近なこと」として考えること。それでも人を傷つけてしまうことだって多いのだから、せめてもの努力はしてくべきだろう。「グローバル化」が叫ばれてそれなりの年数が経ったがが、SNSの誹謗中傷が後をたたない状況を見ると、本当に何を目指しているのだろう、と疑問に思ってしまう。

主張文についてはこれで終わります。次は魯迅の『故郷』について書いていきます!

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