山本周五郎「経済原理」③

山本周五郎「経済原理」

「作者の位置」

 前回の記事で「わたし」と「少年たち」が「経済」の関係の中で、お互い信頼できずに苦しんだ話をしたが、この「経済」を持ち込んだのは、作品の中で「わたし」の方だったと悔いる場面がある。引用する。

 「少年たちにこうかつと貪欲な気持ちを起こさせたのはわたしの責任である。初めにわたしは『そのふなをくれ。』と言えばよかったのだ。」

 「そのふなを売ってくれ」と言ったのが悪かったと悔いているのだが、私はそれ以前に問題があると思う。それは冒頭で少年たちに話しかけるときだ。

 「近よってのぞいてみたところ、バケツの中にふなが十二、三尾もいた。…ふなのほうが多く、それも三寸くらいの手ごろな…形のものであった。わたしはちょっとふところ考えてから、おもむろに少年の一人に話しかけた。」

 このように、「わたし」は「ふところを考えてから」、つまり所持金を考えてから、「少年たち」に話しかける。本当に仲間意識で結ばれた「ひとかどの土地者」なら、近所で魚をとっている少年たちに「ふところを考えてから」話しかけることは絶対にしない。例えば同じ学区内の小学生が魚を釣っていたら、私はまず小学生たち自身に興味がわくはずだ。せめて「何が釣れたんだい?」「おいしそうだな。」などと話しかけるのが妥当だろう。そう考えると「わたし」の誤りは言葉選びの問題ではなく、そもそもの「浦粕の人々」を見る視点にあると思われる。

作者が浦安の地を後にして、8年後と30年後、短編として浦粕を題材にした小説をいくつか発表した後、またこの地を訪れている。

しかし、誰も「蒸気河岸の先生」であった「わたし」を覚えていない。特にかわいがり、映画にもつれていった少年、「長」ですらも覚えていない。(「長と猛獣映画」は特に好きな部分である。)一見薄情に思われるかもしれないが、一生懸命に生きている自分たちの生活を生きている「浦粕の人」たちにとって、30年も前に一年ぐらいだけ滞在した「外部」の若者など、覚えているはずがない。30年後、大人になった「長」に背負われて畦道を渡りながら、転びそうになるのを「長といっしょに水の中へ転倒するならそれもまたよし」と思う作者の感慨深い様子から覚えていないことへの一抹の寂しさを感じる。

しかし、新潮文庫の解説で平野謙さんが言及しているように、この一定した作者と「浦粕」との距離を作者ははっきりと受け入れている。むしろこの距離が開いているからこそ、この作品は誕生することができた。「浦粕」の人たちはただ作者に自分たちの生活を見せただけである。それは作者が滞在していようといまいと変わらない日常だ。内部の人間はその日常が小説の「題材」になるとは全く思わない。それを客観的に見ている外側の人間だけが、そこに自分たちとの「差異」を感じ、それを魅力として描くことができる。

作者は外部の視点から「浦粕」を一種のユートピアとして書き上げた。田舎の粗雑で生々しい人間模様は、都会のものがすました態度で倦厭してきたものだ。しかし、そうすることで隠してきた「生への欲求」や「愛情表現」の発掘は作者にとって、強い憧れとしてたちのぼり「作品」となって「都市」に普及された。そしてこの作品は日本の戦後社会に「人間」とは何なのか、(小説の小題を借りるなら「人はなんによって生くるか」)都市化していく姿は正しいのか、という疑問を投げかけたことで注目された。

だが、「浦粕」の人たちにとっては、そのような評価など関係がない。ただただ目の前に自分たちの生活があるだけだ。私を含む読者たちは少なからず作者である「わたし」と「浦粕の人々」との感動的な再会を期待する。「長」が「先生!」と呼んで、「猛獣映画」の思い出を語るのを期待する。そしてそれは作者自身にもあった期待たろう。

しかし、彼らはその期待を裏切る。「わたし」は一貫して外部からの視点しか持っていないのだから。「浦粕」の人からすれば、30年も前に網にかかった珍しいおもしろい形をした魚を覚えていろ、と言っているようなものだ。彼らは「作者」や「読者」の望むように動いて、見せるためのエンターテインメントを演じる人々ではない。30年前も今も、ただただ自分たちの生活が存在するだけだ。そう思うと、作者が彼らの記憶から消えていることは、この作品を書いたことの「代償」のように思える。外部の作者が内側からしっぺ返しをくらったような感覚だ。そして作者は寂しさと共にこの代償を受け入れ、外部の人間としての態度を明確にした言葉で作品を締めくくる。

「私は近いうちに、もういとどぜひ浦粕へ、こんどは釣客としていってみるつもりである。」

ところで、私は「浦安」には行ったことがない。当時を再現した観光地もあるそうだが、偽物だとしても、雰囲気を知るために行ってみたいなと思う。

これにて、山本周五郎「経済原理」について書くのは終了です!

次からは「自分の感受性くらい」を中心に茨木のり子さんについて書いてみようと思います。

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