深緑野分「ベルリンは晴れているか」
2018年度「本屋大賞」3位を受賞した作品だ。普段あまり最近の小説を手に取らないが、この小説は大学時代の友達からオススメされて読んだ。第二次世界大戦後のドイツを舞台に、被害者側、加害者側の二つでは割り切れない「市民」たちの葛藤と暮らしが生々しく描かれた小説だ。ミステリーの要素もあるので、今回はネタバレ無しで感想を書きたいと思う。
まずはなによりも「善良な市民」という言葉が印象的だ。ナチスの教育を受け、ユダヤ人を密告したのも、党員の父親を誇りに思い、異議を唱えるものを糾弾したのも、労働組合に入り、共産主義運動を行ったのも、そこから生活のために脱退したのも、息子の死を怨んで行動したのも、ユダヤ人たちを慈善事業でかくまったのも、全員が「善良な市民」だった。
この作品は、登場人物が多く、境遇も性格もバラバラなのだが、その全員に読者が共感できる「人間らしさ」がある。史実だけを見れば、ドイツ人がユダヤ人を迫害し、ベルリンから追い出し虐殺したことは、ひどい悪行だ。しかし、同じ立場だったら、私もそうしていただろう、という考えに反論できない。なぜなら私も多くがそうであったように、「善良な市民」だからだ。
主人公の父親が幼少の主人公に提示するように、「他者をいたわる気持ち」を持たなくてはいけない、それこそが正しいことだ、とほとんどの人間が理解している。主人公も父のいう通り「そうあろう」とする。しかし、それをいざという時に実行するのは難しい。目の前の差別、排斥、虐殺、を止めるよりも先に自分が生きる道を考える。自分の自尊心を失わないように、自分が傷つかないように、他者から攻撃されないように、自分を守って生きようとする。しかし、その選択が確かに他人を傷つけることにつながり、最終的に命を奪うことにつながる。
それを終戦という時を迎えて振り返るとき、「戦争だったから仕方がない」、「ナチスに騙されていた」と言ってしまうことはできる。この言葉にも誰も反論ができない。けれどもその言葉は終戦後「戦勝国」に蹂躙される側の立場になった自分たちにそのまま返ってくる。自由を奪われて、戦勝国の顔色を窺って、媚びて生きなくてはいけないのは、「お前の国が戦争で負けたから仕方がない」と。
主人公は「戦争だから」ではなく、自らの人間の尊厳を回復しようとする。国に運命を左右されるのではなく、人間として選択し、人間として正しい道を歩もうとする。それは幼少期に父から提示された「他者をいたわる気持ち」を実行しようとすることだ。父親のその言葉は主人公のアイデンティティそのものであり憧れであった。だから主人公は幾度かの後悔の後に自分よりも幼く力の無いものを必死に守ろうとする。(しかし、その小さな意志すらも折られてしまうのだが)
「戦争だったから仕方がない」。この口実を超える「善良な市民」が背負わなければならない「責任」とは何なのだろうか。私は「客観的」に見れば、その責任は存在しない、と思う。先ほども述べたように、「私でもそうする」可能性があるからだ。それを克服できないのに一方的に批判をすることはできない。
しかし、「戦争だったから仕方がない」と言っている人達自身はどうであろうか。生きていくだけでも必死な戦後で、蹂躙され、罵倒される中で、彼らに胸の中でくすぶる「後悔」は重く突き刺さる。自分の善意の声、「手をさしのべなければ、助けなければ、声をかけなければ」を振り切って見捨てた命たちは、彼らの心をずっと締め付けている。いくら「仕方がない」と責任を「国」にしても、それは癒すことができない。
また、戦争の加害責任を「国」だけの責任にする限り、今後も「国」の責任で蹂躙され、市民たちは自らの尊厳を回復することができない。そして一個人として、生まれ育った「国」を、一人の人間として愛することも一生できない。だから、「善良な市民」たちが、自分たちのことを「主体的」に見つめるとするなら、そこに人として自分の罪を見つめる「責任」は必要だ、と思う。爆撃でやられた瓦礫の隙間から見える晴れた空に向かって立ち上り、本当に美しい国を「市民たち」が自分たちの手で作ろうとするなら、それは必ず必要なことだ、と思う。
私はドイツには行ったことがない。ベルリンに行って空を見上げたこともない。ドイツの戦後復興や、戦争犯罪を償った方法に詳しいわけではない。けれども今の「ドイツ」という国の姿こそが、当時の「市民たち」が迷いと後悔と血と涙と一緒に作り上げてきたものなのだ、ということは実感できた。きっと題名の「晴れているか」という疑問形が表すように、この時代の責任は今後も背負い続けなければならないだろう。それこそ晴れる日などないのだろう。いや、客観的に晴れていても、「晴れているか」と市民たちは主観的に問い続けなければならないのだろう。そうし続けることが「ドイツ」という国を正しく、美しい国へと発展させる唯一の道だ。
さて、「戦後責任」という言葉を考えると、どうしても日本のことを考えてしまう。と、ここで、そういえば、戦後に書かれた日本の戦争文学を自分は読んだことがあっただろうか、と思い返してみた。井伏鱒二の『黒い雨』(原爆被害について)、遠藤周作の『海と毒薬』(米兵捕虜を生体実験する日本医師)は読んだことがある。近頃だと、こうの史代の『この世界の片隅に』も読んだ。しかし、数えるほどで、他の作品は読んだことがない。正直、感情的に読む気が起きないジャンルではあるが、在日朝鮮人としてちゃんと私自身も向き合う必要があると思う。これからは手に取ってみよう。それからまた「日本と戦争」については語りたいな、と思う。
ところで、日本が侵略し、植民地としていた「中国、朝鮮」に対する加害意識がメインとなっている小説はあるのだろうか。パッと一冊も思い浮かばないのは、私が無知なだけだろうか。日本文学を教える在日朝鮮人としてまた課題が見えた気がする。
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