「苦難を生き抜いて」―『白いチョゴリの被爆者』より

証言集

「苦難を生き抜いて」―『白いチョゴリの被爆者』より

「歴史をうけつぐ」

 1945年、広島には多くの朝鮮人が居住していた。原子爆弾によって被害にあった18名の在日朝鮮人たちの言葉を集めた『白いチョゴリの被爆者』(1979年、広島県朝鮮人被爆者協議会 編集)という書籍がある。この書籍の前書きは松本清張が書いており、彼は今までに統計的なもの以外で被害者の声を集めた書籍がなかったことに言及し、

「本書は、被爆された朝鮮人の体験を直接当人たちにあたってその声を録音し、活字に再現したもの。いまにして採集しなければ、やがて消えゆくものであり、そのことを考えれば二度と得られない貴重な記録である。」(引用)としている。

その中で「呉鳳寿(オ・ボンス)」氏の証言である『苦難を生き抜いて』を中学二年生で習う。呉氏は慶尚南道で生まれた。幼少期は日本の植民地政策によって、小学校で日本語を習い、教育勅語を覚えさせられた。そして、代々伝わる土地は取り上げられ、生きる術をなくした呉さんは、20歳のころに仕事を求めて、九州の小倉へと渡った。

 その後、渡った広島で原爆被害にあうのだが、(原爆については『黒い雨』(井伏鱒二)の時に詳しく書きたいと思う。)同じ原爆被害者でありながら、日本の被害者とは違う、朝鮮の被害者としての差別に合う。

背中から被爆し負傷した彼が、やっとたどりついた治療所で、耐えられずに「助けて!」と言った時、その場にいた兵隊が「貴様!朝鮮人のくせして、ギャアギャア言うな!」と怒鳴る。この言葉を聞いて彼は「奈落っていうが、あそこに吸い込まれるような気がし」た、と語っている。

これについて、「なんだ、言われただけか、それだけか。」と思う人もいるかもしれない。人はつい「差別」という言葉を聞くと、なにか酷い、おぞましいことをされた、という話を求めてしまうのではないだろうか。私も何を教えるのにも誇張しないように、と気を付けてはいるのだが…。けれどもこの「言葉」は「言葉」以上の意味を持っている。ぜひ想像してほしい。異国で、突然、生きるか死ぬかの被害にあって、同じような被害にあった人の中で、さらに「○○人」だから、という理由で差別されることを。「○○人」というのが想像しにくいなら、「男、女のくせに」といった性差や、身体的特徴や、趣味趣向や、その他のことに当てはめて想像してほしい。日常で言われても自分が否定されているようで嫌だと思う。(こういう日常のハラスメントについては、twitterなどのSNSを見ると、ここ数年でずいぶん意識が敏感になったな、と思う。)それが原爆という死の瀬戸際で行われたのだ。そしてこれは(性差別でも同じで)それを言った「兵隊」だけの感情、問題ではなく、社会通念としてまかり通っていた認識だ。実際の暴力を振るわれるよりも、社会という大きな壁に囲まれた「閉塞感」のような、無力感、絶望感を持つのではないだろうか。私は、「差別」とはそういうものだ、と認識している。書きながら、今まで上手く生徒に伝えられなかったと思うので、今年はがんばりたい。

 さて、呉さんは九死に一生を得た。けれどもその後も後遺症と戦いながら、貧困のなか子供を亡くされた。生き残った子供たちは朝鮮学校へと入学した。家から近い日本学校に入学させなさい、と親切心から言った日本人に「私はあなたの親切を恨みます」と、呉さんは言う。「朝鮮人のくせに」と言った兵隊を持つ国家の学校に、同じ朝鮮人である自分の子供たちを入れる気がしないのは当然のことだと思う。(これも置き換えて想像してほしい。例えば、「女性は生む機会」(2007年の柳沢元厚労省大臣の発言)と言った人の元で自分の娘を働かせるか、という問題。)

 そして朝鮮学校に通った子供たちは「朝鮮人をピカに遭わすことはないように、わたしの国を作ってくれる立派な子に育ってくれたよ。」という言葉で教科書の内容は終わっている。

 さて、私が通った朝鮮大学校では、学部に関わらず2年生まで朝鮮語を必修で習う。私たちが一年生のときに朝鮮語を習った先生は、定年から少し前の女性教師であった。物腰がやわらかく、背の高い上品な先生で、彼女の朝鮮語は優しく美しかった。白い日傘を差して校内を歩く様子は素敵だった。私たちはすぐに懐き憧れ、新しく習う朝鮮語を一生懸命に覚えた。私たちはこんな憶測をしていた。あの先生はきっと良いところのお嬢様育ちだ、だからあんなに品がよく素敵なんだ、と。

 しかし、だいぶ後から知った話だが、この先生こそ「呉さん」の娘だったのだ。それを知って私はとても驚いた。被爆した父親の看病をしながら貧困で兄弟たちを亡くされたような人だとは全く想像もできなかったからだ。

 『白いチョゴリの被爆者』で、呉さんのページには、娘である先生の作られた「我らの言葉」という詩が紹介されている。引用する。

 言葉は民族の声 我らの言葉は朝鮮人の心

言葉で 人間同士の心が通い合い 親しくなる

言葉を通じて考え 言葉を通じて心を交わせ団結できる

言葉を通じ 新しい生活の花を咲かせることができる

風が壁をたたき 雨もりのする教室 川べりをならした運動場

私は はじと感じず しっかり鉛筆をにぎって必死に学んだ

人民達が 祖国の空を 土を 水を知ったその時から

祖先達が 代々に亘って大事にひき継いで来た我が言葉

そこに 我民族の魂が深く刻み込まれている

万一 私の口に出る言葉がはっきりせず耳に聞こえにくい時

あの学生達から出る言葉が 正確でなく よその国の言葉を使う時

私がどうして祖国の心に忠誠であったと言えるだろうか

私は 祖国の心を一つでも落とさないように我らの言葉を学んでいく

私は 我らの言葉をもっと正確に使っていく

(『我らの言葉』呉香淑(オ・ヒャンスッ)1969年)

 私の記憶にある呉先生は、まさにこの詩(決意)を実践していらした。いつも優しそうに微笑んでいらしたが、私たちと接するとき、その心中の情熱と覚悟はどれほどのものであったろう。一年という短い時間ではあるが、美しい朝鮮語を先生から習った身として、この数十分の一でも、ちゃんと覚悟を持って朝鮮語を使っていきたい。

次回からは中学3年生の教科書に記載されている作品について語っていきます!

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