主張文を書こう②

主張文

違和感がアイデンティティに

 前回の記事で、アイデンティティに関する主張文に対して抱いているジレンマを書いた。しかし、どうしても生徒たちの経験は言語化するとアイデンティティに繋がる。ふとした時に、「日本人ではない」という理由で覚える『違和感』は簡単に消せない。

 私もその時は「違和感」としか残らなかったが、振り返ってみると、民族アイデンティティの芽生えであった、という体験がある。それは小学校高学年の頃の話である。通学のために市バスに乗っていた時、隣に座っている中年の女性が話しかけてきた。愛想のよいおばさんで楽しく話をした。しかし、「どこで降りるの?」という質問に停車場の名前を答えると、ふと不思議そうな顔になり「そこなら、バスに乗らなくても近くに○○小学校があるんじゃない?」と言った。

 日本の小学生と全く変わらない姿なので仕方がない。しかしこの善意からの質問に私はとても当惑してしまった。朝鮮学校では、朝鮮人として堂々と生きていきましょう、と教えられていた。けれどもそれと同時に90年代だったので、チマチョゴリ切り裂き事件など、朝鮮学校の生徒に対する嫌がらせや暴力の存在も知っていた。とても親し気なおばさんだったのに、私はここで自分が朝鮮学校に通っていることを伝えてもいいのか、と戸惑った。思い返すに、私にとってこの時が初めて外に向けて自分のことを話す機会だったのだろう。家の中、学校の中では自分が朝鮮人であることは当たり前で何の問題もないことだった。

 実際に戸惑って重い悩んだのは数秒だったと思う。私はおずおずと自分が家の近くにはない朝鮮学校に通っていることを告げた。すると女性は顔を明るくして「すごいね!朝鮮語も日本語も話せるのね!」と言ってくれた。私はとてもホッとした。しかし、この時の戸惑いは「違和感」として長い間心に残り続けた。しかも、「どうして自分は堂々と言えなかったのだろうか」という、どちらかと言うと自分を責める方向で残ってしまったのだ。  

結局、大学院まで行って様々な角度から学ぶ過程で自分なりに解消することは出来たのだが、今でも自分のアイデンティティの発露が、戸惑い、恐れ、後悔、と負の感情からなのは悲しく思っている。

そして、これは私の特別な体験ではない。20年後の生徒たちも同じように戸惑っている。今まで書いてくれた生徒たちの例を少しあげるなら、

 塾で朝鮮学校の教科書を開いていると、韓国アイドル好きの生徒に話しかけられ、「なんで日本に住んでいるの?」「韓国人なの?」「日本語わかるの?」と質問攻めにされて、どう答えればいいのか、戸惑ってしまった生徒の経験。

 また、幼少、期日本の幼稚園に通っていると、朝鮮の名字をからかわれて「自分は他と違う」という意識からなじめなかった生徒の経験。けれども中学生になってやっと和解が出来た経験。

 日本の幼稚園に通っていた友達と小学生になって再会した時、「何で日本の小学校に通わないの?生まれたのは日本だし、朝鮮は行ったことない国でしょう?」と言われ、戸惑ってしまった生徒の経験。

等々……。このように生徒たちは生きながら日本社会の中で自分の存在について考えている。「自分は何者なのか?」「朝鮮学校に通っているのはどうしてなのか?」「このままでいいのだろうか?」と。

私は自分の体験を他に話すことが出来たのが大学院の時だったので、それまでもやもやとしてしか処理できないでいたが、このように言語化することで、少しでも生徒たちのもやもやを整理することができたらな、と思っている。また生徒たちはそこからそのもやもやを好転できる力を持っている。導くのは簡単なことだ。その戸惑いがある中で、それでも朝鮮学校に通い続けるのは何故? と尋ねる。生徒たちの答えは、

「朝鮮学校に通うのが楽しいから。民族楽器の部活も楽しいから。」

「同じ名字の友達がいるから。同じ友達として話かけてくれたから。でも日本幼稚園のころのの友達も、この頃は私が朝鮮語を読めるのがすごい、と言ってくれるから嬉しい。」

「韓国に行った時、書かれている朝鮮語が読めた。自分の国だって嬉しくなった。朝鮮学校に通っていなきゃ読めなかったし、きっとこんなに感動しなかった。」

さて、この返答に教師として何が言えるでしょうか。(笑)

「そのまま書きなさい。それで十分。」しか、毎回言えない。(いや、もう少し引きだすためにがつがつ行っているかな……。)

 他にも、日本の社会から「言われた」経験とは逆に、自分が知らずに人を傷つけていた経験を書く生徒もいる。同じ学校の自閉症の先輩に対して嫌悪の態度を示してしまった経験や、町をいく身体障害者の人を蔑んだ経験を書いた生徒もいる。そして、「ヘイトスピーチ」など、よく言われているが、自分たちはいつも被害者ではないこと、いつだって加害者になりうることを書いた。そして「人」として「他者」としっかり向き合って生きたい、と主張した。(この生徒は市の弁論大会で最優秀賞を受賞した。)

このように、生徒たちが書くアイデンティティに関する主張文はとても魅力的であり、社会にぜひ知ってほしい内容が多い。短いながらも生徒たちの生きてきた人生そのものが常に政治や、言論、社会情勢と結びついている。大きな世界にいつも翻弄されながらも、それでも自分たちの青春をしっかり生きている生徒たちがいることを、これからも多くの人たちに知ってほしいと思っている。

次回は出場している「弁論大会」について書きます。

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