主張文を書こう③

主張文

主張文を書こう③

大会に参加して思うこと。

 書いた主張文を用いて市の弁論大会に出場することがある。大会という名目上、評価や賞が関わってくる。しかし、何事もそうだが作品に優劣をつけるというのは難しいものである。

 弁論はさまざまな要素で審査が行われる。話の論理性が一番大きい比重を占めるが、声の明瞭さや、聴衆を意識した聴衆感、服装や態度、等、話す技術も大事な要素となる。弁論は弁士が自分の気持ちをどれだけ聴衆にとどけることができたかが大事だ。自分の体験をいかに共感してもらえるか、いかに身近に感情移入してもらえるか、声の高さやスピード、聞きやすくも個性的でインパクトの残る話し方を見つけていかなくてはならない。

 そのためには、弁士が感情をどれだけ口調に乗せられるかが大事になってくる。自分の体験と感情を臨場感を込めて伝えることで、聴衆により強く訴えることができる。

 私は弁論大会に学生を参加させながら、最初は自分の指導が正しいのか、他校と比べて勝負になるのか、不安と緊張でいっぱいいっぱいだったが、何度か回数を重ねるうちに、論ずる内容の深さでは負ける気がしなくなった。そう思ったきっかけは朝鮮学校と他校の弁論内容に差があることに気が付いたからだ。

他校の弁論は大きく二つに分けることができた。一つは大きな社会について、もう一つは個人の体験を通して、だ。①前者は「戦争体験を聞いた」、「ニュースでこんな報道があった」、「世界ではこんな問題がいま起こっている」という大きな話だ。そして②後者は「生徒会の経験を通してこんな風に成長ができた」、「部活での悩みは友達と解決できた」、「最初はできなかったけれども勇気を出してできるようになった」、というものだ。

①の大きな社会についての弁論は簡単にいうと一般論になりやすい。「戦争はだめだ」、「差別はよくない」、「小さなことから私たちにできることを」、という、簡単にいうと「当たり前」な論調になりがちだ。みんながぼんやりと「しなくては」とわかっていることをぼんやりと語るのでインパクトは強くない。戦争を体験していないのに「戦争はよくない」と語り、「貧困」を知らないのに「貧困問題を解決しなければ」と語ってしまう。それ自体は悪いことではないし、言い続けるのは必要なのだが、それじゃあ具体的に「あなたは?」という疑問が残る。差別に戸惑ったことがあるのだろうか、差別をしてしまったことがあるのだろうか、戦争がなくならないのが自分の生活の豊かさと関連していると、本気で考えたことがあるのだろうか、と。断っておくが、中学生にそこまで求めているわけではない。ただ弁論を聞いていてとても客観的だという感想が残る。二つ前の記事にも書いたが、主張は正しくても、それを聴衆に納得させる「自分の体験」が弱いのだ。

反面②の弁論は「自分の体験」なので、文章に感情を込めやすいし、聴衆も共感がしやすい。中学生たちが迷いながらもがんばる話は聞いているだけで応援したくなる。これは聴衆も中学時代を過ごしているので追体験しやすいからだろう。けれどもこれも難しい話で、中学時代にそうそうドラマチックなことは起こらない。似たような体験が続き、似たように成長した話(細かくいえば全く違うのだが)が続くと、どうしても飽きが来てしまう。去年も似たような話をする生徒がいたな、となってしまう。そして主張も「勇気をもって一歩飛び出す」、「友達の助けを借りる」などの一般論になりがちだ。当然、声や態度で印象に残る生徒もいるが、何となく話が単調な印象を与えてしまう。

さて、それと比較するわけではないが、朝鮮学校の生徒たちの主張文は一つ前の記事にも書いたが、この二つの論調の良い所を備えているものが多い。個人の体験が個人の体験に留まらず自然に社会問題と繋がるからだ。何気なく言われたことや、なにげなくした行動や考えは、差別問題(する、されるどちらも)や民族のアイデンティティに繋がっている。当然、世界に住んでいる人間全員が社会と政治に繋がっているのだが、私たちが社会の中でマイノリティな分、それに気づき意識化することが多い。

残念ながら日本の若い人たちの政治離れは選挙の投票率を見ればよくわかる。自分の暮らし、生活を政治とかけ離して考えている。そんなことは絶対ありえないのだが……。(現在のコロナ騒動をきっかけに意識が高まった感はある。私達にはないが、日本籍の人たちは自分たちの身を預ける政治家を選ぶ権利を持っているのだからちゃんと有効活用してほいい。)

と、いう訳で、わが校の生徒たちは、大きな社会問題を小さな個人の体験レベルで語れる、という点でかなり有利なのである。そして自分たちにしか語れない唯一無二の題材なのでインパクトにも残りやすい。だから最優秀賞をはじめ、それなりに毎回好成績を収めることができている。

しかし、数年前から、少し大会の主旨が変わったような気がする。インパクトが残る弁論というのは、つまり「社会問題につながる特殊な個人体験」をした生徒の方が書きやすい。だから、そういう生徒が主に出場するような風潮が生まれている。先ほどもいったように朝鮮学校の生徒はそういう体験は見つけやすい。それでは他の日本学校はどのような生徒が参加するのか。例えば聴覚に障害を持った生徒、中国からの留学生、祖父が大病を患っている生徒、母親からネグレクトを受けた生徒、親友を病で失った生徒、いじめをきっかけに引き込もりになった生徒、等だ。全員なかなか重い論題を持ってくる。そしてインパクトにもしっかり残る。当然、同じ舞台で「生徒会での出来事」を話している生徒たちよりも印象は大きい。そしてこういう作品の方が賞にも選ばれやすい。

「主張文を書こう①」の記事にも書いたが、教育者としてはとてもジレンマを感じてしまう部分だ。結局、そういうトラウマにも似た「特殊な体験」をしていないと賞を取ることはできないのか、という問題だ。審査員たちの評価基準を疑問視しているわけではない。私だって、聴衆だって、涙をこらえながら「お母さんに会いたい!」と訴える生徒には感情移入してしまう。そして先ほども述べたとおり、様々な要素からの評価があるので、彼らが当然論旨だけで評価されているわけではない。みんなが大会に出るのだからある程度の練習をしてくる。しっかり伝えて観客たちの目を見て話すことも出来た上で、内容で甲乙をつける場合の話だ。もちろん賞を取ることでその生徒が前向きに成長する面もあるだろうし、社会に訴える力も大きくなる。しかし、そのような主張文が続くと、とてつもなくその会場が特殊な空間のような気がしてくる。いかにトラウマが深いかを競っているような、おかしな感覚に陥ってしまう。

多分、これは教師として、「賞」にこだわっている部分が私に強いからだろう。一人、一人の演者たちは(当然賞も狙っているが)自分の気持ちを伝えるためにきたのだから。そして、私たちが参加している弁論大会は、賞とは関係なく、審査員からきちんと全員に講評が伝えられ、生徒にもわかりやすく評価をしてくれる。だから大会が終わった後はみんながすがすがしい顔をしている。友達になって連絡先を交換する生徒も現れる。私も「賞」ばかりにこだわらず、他の生徒たちと比べることなく、自分の生徒の気持ちをしっかり日本の社会に向けて発信していきたいと思う。

次回は主張文を書く時のある注意点についてまとめて書きたいと思います。

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