雑記②「思い出のマーニー」

雑記

映画『思い出のマーニー』

なぜ「よくわからない」のか。

金曜ロードショーで『思い出のマーニー』が放送される。私にとってはここ最近のジブリ映画では一番好きな作品だが、割と周りの評判は悪い。学生達にも評判が悪い。理由は「よくわからない。」が多かった。

なぜ「よくわからない」のか、自分なりに『思い出のマーニー』が受け入れられない理由を整理してみる。(なんとなくで語っているので、違ったらすみません。)

『思い出のマーニー』は原題〝When Marnie Was There”(1967)というイギリス児童文学が原作。実は非常にイギリス児童文学らしい小説というか、イギリス児童文学あるあるが強い作品。そして、たぶんそこらへんが日本に住んでいる私たちには感覚的に理解しにくい部分なのだろう。

学生達が『思い出のマーニー』を理解できないポイントは、主人公のアンナは時間移動して過去に戻っていたのか、ただ夢、幻を見ていただけなのか。マーニーは結局、何者なのか。幽霊なのか、幻なのか、何なのか。そこらへんがはっきりしていない部分にあると思う。

まずこれが理解できない理由の一つ目は、日本では時代移動、過去に戻る、という話がそもそも少ない。筒井康隆の『時をかける少女』、藤子不二雄の『ドラえもん』などはあるが、まあ、言っても最近の作品だ。イギリスは時間移動でいうと1895年にH.G.ウェルズが「タイムマシン」を発表していて割と古くからある。そして、イギリス児童文学では特によくある部類だ。『時の旅人』(1939)、『飛ぶ船』(1939)『トムは真夜中の庭で』(1958)と、特に過去へと戻る物語は多い。

その理由としては「強かったヴィクトリア時代のイギリスへのノスタルジー」が関係している。アメリカ、ドイツという勢力の台頭と、植民地インドの独立。世界を牛耳っていたイギリス帝国の衰退は、子どもにお話を語る親たちに過去の栄光を懐かしませた。だから、上にあげた代表作も第二次世界大戦が開始した年や戦後に集中している。また急速に都市化していくイギリスに対する閉塞感も作用した。広い庭、牧歌的な風景は消えていき、所狭く並べられたアパートやビル、車の排気ガスで充満していく都市。イギリスの人達が愛した風景は全て過去のものとなってしまったのである。

また、これはイギリス児童文学特有のものなのだが、「なぜ、過去に戻ったのか、その方法がはっきりわからない作品」が多い。大人向けに発表された『タイムマシン』はSFである。この作品では科学という明確な方法で過去へと戻る。これは日本の『ドラえもん』もそうだし、アメリカの『バックトゥザフューチャー』もそう。「科学の力」というはっきりした方法が提示される。日本でもどちらかというと「過去に移動する」といえば、「科学の力」を使う、という印象が強いのではないだろうか。

※『クレヨンしんちゃん』の映画で時間移動を扱った『アッパレ戦国大合戦』では、全く科学は関係ないが、あれは数々のトンデモ設定を乗り越えてきた野原一家というスーパー春日部市民なので特に視聴者は疑問に思わない。過去に戻る野原一家も慣れたもので、すんなり受け入れている描写が笑える。後は『犬夜叉』も科学とは関係なく過去に戻るが、それは後述する「日本人と神」の話が関係している。

だから『思い出のマーニー』の理解しづらいポイント二つ目は日本とは違う、「あいまいさ」にある。この作品だけでなくイギリス児童文学は、そもそも「過去に戻る方法や理由がはっきりしていない」ものが多い。言うなら「魔法」というか「不思議な現象」で過去に戻るのだが、ここで「魔法です」と明示されるなら、それはそれで納得できるのだが、そうとも言い切らない。

イギリスの児童文学では幼い頃に経験する「不思議な現象」を、大人になってから「昔、そういうごっこ遊びしていたよね。」と、落とす作品が多い。つまり『ナルニア国物語』でもそうだが、「不思議な現象」が実際あったとしても、最終的には「体験した人の意識の中での出来事」として見る傾向がある。だから主人公が大人になったら「魔法」を忘れ、「あれは空想内の出来事だった」とする作品はかなり多い。

多分、この考え方は発達心理学や、精神論などが盛んな西欧らしい感覚だと思われる。「現実があって、それを認識する」というより、「認識することによって、現実としてあらわれる」といった感覚が強いのだろう。

最近は日本でも「イマジナリーフレンド」という言葉を聞くようになったが、西欧の方では1890年代に始まり、1930年代から盛んに研究されている分野だ。発達段階の過程で子どもが架空の友達を作る。これをイギリス児童文学は「魔法」と呼んできた。だからイギリスの児童文学では、「魔法」や「不思議な現象」、「不思議な出会い」は、全て子どもの「精神」内の話であり、成長過程に必要なものという見方が根底的にある。

だから、実際に過去にもどっていたのか、夢なのか、頭の中で作った幻なのか、かなりあいまいな作品がおおい。特に『思い出のマーニー』や『トムは真夜中の庭で』のように戦後の作品は顕著だ。SFのように明確に「科学の力で過去に戻った」と描かない。『マリアンヌの夢』(1958)なども、時間移動はいないが、彼女の体験するものが結局、夢なのか、何なのかよくわからないし、何でそういうことが起きたのかもはっきりと提示されない。

それでは、そういう作品内でそういう「不思議な現象」が起こる理由は何かというと、やっぱり「精神」に帰結する。「孤独な子どもの精神が同じように孤独な精神と呼応して惹きあった」という作品構造だ。『思い出のマーニー』もこれにあてはまる。

アンナが実際に過去に行ったのか、夢だったのか、幻だったのか、それはどうでも良い。マーニーが幽霊なのか、アンナのイマジナリーフレンドなのか、幻なのかも、実はどうでもよい。ただ、孤独な心を抱えた子供が、その出会いによって、自分を認め、自分の外へと踏み出す。その精神的な成長こそが作品の軸となっている。

『思い出のマーニー』はどうとも取れるように書いているが、特に映画ではアンナの「精神」の中での出来事として描かれているように思われる。

アンナ自身は忘れていたが、幼い頃に昔話として、マーニーから少女時代の思い出を語られている。アンナはその記憶をマーニーが住んでいた「屋敷」をみたことで、無意識のうちに思い出し追体験する。そしてイマジナリーフレンドとしてのマーニーを意識の中で作り出した。だからマーニーのセリフや親しげな表情は、「アンナがそう思っていてほしいからそう言わせた。」という見方もできる。

しかし、自分も少女時代を孤独に過ごしたマーニーが幼いアンナを残して逝かなくてはならなかったことを考えると、確実に彼女が後悔を感じていたことも想像ができる。そう思うと、「幽霊」としてのマーニーがアンナと過去の自分を助けるために現れたという見方もできる。

上で述べたとおりどちらでも良いし、二つの理由が合わさったとも考えられる。大事なのは彼女たちの出会いによって、アンナは成長し、マーニーも慰められたという事実だ。

クライマックスに訪れる、アンナがマーニーを「許す」シーンは、実際に後悔している死後のマーニーに届いたかどうかはわからない。(アンナのイマジナリーフレンドだとすると。)けれどもアンナはマーニーを許すと同時に、マーニーを許せなかった自分も許すことができた。それがより大事なことだ。たとえマーニーには届かなくても、アンナがそう伝えられたと思っているから、アンナにとってはそれが現実であるし、マーニーにとってもそれが一番の許しとなる。

そして、この「どちらとも取れるあいまいさ」こそが、イギリス児童文学の芸術性の高さだと思う。どちらの立場に立って読んでも、二人にとって救いとなる出会いには違いない。二人の繋ぎなおされた絆はアンナの自信となり成長へとつながっていく。

戦後イギリス児童文学の最高峰とも呼ばれる『トムは真夜中の庭で』もこの手法をとっている名作なのでぜひ読んでいただきたい。精神と記憶、夢、幻、そのあいまいさを描いた作品としてかなり完成度が高い。

日本人ではどうかというと、「不思議な現象」に関して、どちらかというとイギリスとは逆に「現実のものとして受け入れる」傾向がある。例えば『となりのトトロ』。この作品を観て、「結局、トトロって何なの?」という疑問はなかなか出てこない。また、「トトロはさつきとめいのイマジナリーフレンド」という風潮もあまり聞かない。日本では「トトロ」という存在をちゃんと認めている。開発が進んで、田舎の原風景は見ることが難しくなっているが、「トトロ」はどこかにいる、という感覚がある。主題歌に「子どもの時にだけ」とあるが、それはイギリスのように「子どもの時に作ったイマジナリーフレンド」という意味はなく、「子どもという純真な存在だから見える何か」という意味だ。

『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』も同じだ。「何で山狗がしゃべっているの?オッコトヌシって何?」や、「千尋の夢だったの?あの場所は何だったの?」という疑問は聞かないし、それを理由に「よく解らない」といって敬遠されることはない。 

これは日本人が古くから「八百万の神々」と共に暮らしてきたからだ。「神宿る」という言葉があるように、神や妖怪、お化け、そういった類のものを、西欧の人達よりも日本人はもっと近い場所において暮らしてきた。「トトロ?いるでしょう。山の主ぐらい。」という感覚。「不思議な現象」を、さつきやめい、千尋の幻覚、彼女たちの精神内でのお話、としては絶対に見ないし、作り手もそのように描く気はそもそもない。(『犬夜叉』の時間移動も日本の神の力だから私たちは納得ができる。)

 同じジブリの作品で、私たちが『思い出のマーニー』と似たような疑問を持つのは、『魔女の宅急便』の「ジジ」に関してだ。これは素直に疑問に思う人達が多いだろう。キキと話せたジジは物語の中盤で話せなくなる。それは自分の魔法が弱まったからだと、キキは解釈するが、結局終盤でキキが飛ぶ力をとりもどしてもジジは話さない。これはなぜなのか。そもそもキキがジジと話せたのは魔法だったのか。それはキキの魔法なのか、ジジの魔法なのか、はっきりしていない。ジジの声はキキにしか聞こえないのだから、それこそイマジナリーフレンドのようにキキがジジと話せると思い込んでいただけかもしれない。新しい街で新しい友達ができたキキ。大人へと新しい一歩を踏み出すときに話せなくなるジジは、わたしたちが幼少期のごっこ遊びをやめることに似ている。ジジとの唯一無二の絆を断ち切ることで、キキは新しく広い世界へ飛び込んでいけた。

 じゃあ、なぜ『魔女の宅急便』は『思い出のマーニー』より受け入れやすいのか、というと、まあ、単純に比率の問題だろう。『魔女の宅急便』はジジに関することは全体の2割ぐらいで、トンボや、ウルスラ、など個性豊かな他者との出会いを通してキキの成長を描いた作品だ。けれども、『思い出のマーニー』はアンナとマーニーの関係が8割ぐらいを占めている。話のメインだ。アンナにとっては出自の問題だ。マーニーを越えて、彼女を許さなければ前に行けなかった。『魔女の宅急便』に感じる疑問が、話のメインになっている。それは確かに「よくわからない」という感想になるだろう。

と、いうわけで、『思い出のマーニー』はイギリスの児童文学ではよくあるが、日本ではあまり馴染みのない手法をとった作品なので、感覚として受け入れにくい、というのが私の見解だ。

ちなみにイギリスの「魔法もの」児童文学といえば、『ハリーポッター』だが、あれは『思い出のマーニー』などの時代の『魔法』とはまた違う。『魔法』が完全にシステム化され管理可能な一つのスキルとして取り扱われている。サッチャー時代を経でできたイギリスのあたらしい『魔法』の形だ。

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