山本周五郎 経済原理②

山本周五郎「経済原理」

「経済原理と仲間意識とプライド」

 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!

前の記事で「浦粕の人々」は内側の人間は「身内」であり、外部の人間は「商売相手」と書いた。この作品で、作者である「わたし」はよそから来た「外部」なのだが、外部でありたくない、という気持ちを持ち合わせている。はまぐりを漁師から買うときの独白にそれはよく表れているので引用する。

「わたしはもう一年近くもすんでおり、彼らともおよそ顔見知り程度になっていたので、心の片すみではひとかどの土地者のような誇りをもっていた。」

このように、「わたし」には浦粕の人々と「仲間意識」を持ちたい、という欲求がある。

この部分は、中学生が特に共感できる部分である。「友達」を作るにも少人数の「グループ」といった、仲間意識をより一層もてる集団を形成する。クラスや部活でも自分がグループの一員であるか、どうか、というのはただ属している、というだけでは満足できない。側にいて同じように行動し、考えが通じ合うような「仲間」を必死に求めている。

しかし「わたし」は少年たちを相手に「失策」をする。それはふなを捕っている少年たちに「ふなを売ってくれ」という部分から始まる。その言葉を伝えたとき、「彼ら(少年ら)の顔に何か共通のものが走り、さっと緊張にとらえられるのが認められた」そして、「わたしは、『しまった』と思った。何がどう『しまった』のか不明のまま、非常な失策をした、ということを直感したのであった」と続く。

その後、「わたし」と「少年たち」との駆け引きは作者によってとても滑稽に描かれている。「少年たち」の大人顔負けの策略にはまって値をつけさせられる「わたし」のみじめさ。「それで不足ならやめにしよう」と、子ども相手に強く出たら出たで、「自らおのれをけがすような、やりきれない自己嫌悪とたたか」うはめになってしまう。しかし、子どもたちは「うれしそうにはしゃぎながら」、「わたし」の家をニ、三日おきに訪ねてくる。

私は主人公が「少年たち」を振り払えない原因にまちがった「仲間意識」と「大人としてのプライド」があるように思われる。「拒絶されようなどとは寸毫も疑わず、確信そのもののような少年たちの顔を見て、それだけでわたしは自分の敗北を認めた」とあるように、拒絶することは「少年たち」を失望させ、悲しませることである、と「わたし」には予想がついている。

千本の「長」は別としても、「わたし」は普段、浦粕の子どもたちからはからかわれている身分である。それが「先生」と呼ばれ、「期待に満ちた注目」をそそがれるようになったとすれば、確かにそれを「拒絶する勇気」は起こらないだろう。できる限りのことは大人として応えたい、と思う。私自身も生徒からの要求や期待に上手く応えられたときは嬉しく、優越も感じる。「先生」という立場上、できない、といいたくないプライドもある。だから主人公の「わたし」が断りきれない気持ちがよくわかる。

そして、この気持ちはこの作品を習う中学2年生にもある。よく入りたての中学1年生に自動販売機でジュースをおごってあげる先輩がいる。小学生ではできない「学校の自動販売機でジュースを買ってあげる」という行為は、中学生にとって、かっこよくやさしい「先輩」を演出するには最適なのだろう。何度もおごってあげて、いつの間にかほぼほぼ「たかられている」先輩が数年越しに表れる。悪意はあるのか、ないのか、「ジュースをおごってくれる先輩」と認識している後輩たちは、嬉しそうに「私も!」「僕も!」と先輩に群がる。

 このおかしな「仲間意識」や「プライド」は現実の世界でも、気づいた時には築かれていて、それでいて瓦解するにはとても難しい。けれども、それが健全でないことは、作品の最後で爽快感をもって示される。

「人は黄白の前には、しばしば恥を忍んで屈しなければならないものだ」と、「わたし」は金銭の窮乏から「少年ら」の申し出を初めて拒絶する。「わたしに拒絶されて、少年たちは明らかに失望し、途方にくれた」。ここまでは「わたし」の想像通りである。しかし、思いがけず『それじゃあこれ先生にくんか。』と少年が言う。その言葉に「少年たちの顔に突然、生気がよみがえった。それはとらわれの縄を解かれたような、妄執が落ちたような。その他もろもろの羈絆(きはん)を脱したような、すがすがしく濁りのない顔に返った」と続く。「わたし」は「少年たち」の気持ちを「わたしのさみしいふところを搾取しながら、彼らも幸福ではなかった。」と読み取って語る。

 当然、売る方も買う方も「商売相手」としてお互いを見ていたのだから、そこに信頼も絆も生まれるはずがない。少年たちはそもそも「わたし」をからかいはするが、敵対し、気をはって闘争する相手ではなかった。けれども「わたし」は彼らとの関係に「売る」という「経済関係」を持ち込んでしまった。少年たちは「欲」にとりつかれ、「わたし」を見れば常になによりもまず、「欲」が先行してしまう状態になった。その欲を満たそうと「わたし」相手に必死に戦わざるを得なかった。そのような闘争状態が楽で楽しいわけがない。

しかし、これが題名にあるとおり「経済原理」なのだ。経済は「得」があり「損」がある。相手を自分の「得」に繋げることが「経済」では人間関係の基本である。そのために仲を保ったり、拒絶したり、味方を作り、搾取できる相手には徹底的に搾取する。その緊張した駆け引きはもちろん、私達の世界を動かしているのだが、利害を抜きにした「友情」を育む経験も学校では必要だ。

だから、生徒たちも「物」や「金銭」、「おごる」といったキーワードで人の心を縛っていないか、お互いが苦しい気持ちになっていないか、問いかける。本当の信頼関係を作るためにも「断る勇気」と「純粋な好意への信頼」(人への信頼)は私自身も含め、常に学んでいかなければならない。

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