「自己の努力と他人の意見」
今回で「セロ弾きのゴーシュ」に関する投稿は最後になる。(また思いついたら付け足すが。)最後はゴーシュの「これから」について書きたい。
ゴーシュは一番下手だが、それは彼が練習をさぼっていたわけではない。練習場でも最後まで一人のこって練習し、家に帰ってからも「譜をめくりながら、弾いては考え、考えては弾き、一生けん命しまいまで行くと、また初めからなんべんもなんべんも、ごうごうごうごう弾きつづけました。」と、かなりの努力家であることが最初から描かれている。ともするとその練習は夜中の「一時も過ぎ二時も過ぎてもゴーシュはまだやめませんでした。」とあるように、ほぼ毎夜、夜通し行われていたのだ。
嬉しいことにこの努力はゴーシュを叱っていた楽長から最後に認められる。「印度の虎狩り」を演奏しきったゴーシュを楽長は褒め、『いや、体が丈夫だから、こんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまうからな。』と向こうで言う。楽長はゴーシュが動物たちとの交流を知らない。十日の間に彼の純粋な「努力」だけでここまで成長を遂げたと思っているのだろう。しかし、ゴーシュはどれだけ努力をしてもうまくならなかった。いや、ゴーシュはどれだけ努力をしても「独りでは」うまくならなかった。
何かにうち込み、何かを極めようとするとき自らの「努力」は必要不可欠だ。しかし、その上で必要なのが「他人」だ。それは同じ志をもつ仲間であったり、妨害する敵であったり、時にはわずらわしい非難をする師であったり、客観的な感想を言うだけの通りすがりの人などである。ゴーシュは「三毛猫」にからかわれ、張り合い、「かっこう」に劣等感を教えられ、傷つき、「子だぬき」に指摘され、自分の非を認め、「野ねずみ」に感謝され、優しさを与える。動物たちとの交流の中で、ゴーシュの感情は動き、傷つき、傷つけ合い、それと共にセロの腕前を成長させる。独りでは決してできなかった心と技術の成長だ。見下していた動物たちへのゴーシュの態度がだんだんと優しく変化していく描写は、さりげないがとても効果的ですばらしい。
このように「セロ弾きのゴーシュ」は、成長とは「他人」との関わりの中でしか決して得られない、という真理をついた作品だ。(中学一年生で最初に習う小説である「セロ弾きのゴーシュ」と高校三年生で最後に習う小説である中島敦の「山月記」の主題が同じなのはおもしろい。)
しかし、ふと、気になることがある。なぜその役目は「動物」だったのだろうか。「他人」と書くのだから、それこそ同じ楽団員などの「人間」ではだめだったのだろうか。作者である宮沢賢治は、自然や動物を愛し、神聖な力を見いだしてはよく題材にした作家である。しかし、今回はその作者の趣向はいったん置いてテキストを中心に考えてみたい。
ゴーシュの仲間の楽団員たちはゴーシュをどう思っていたのだろうか。ゴーシュが楽長に叱られているとき、「みんなは気の毒そうにして、わざと自分の譜をのぞき込んだり、自分の楽器をはじいてみたりしています。」とある。この部分も地味ではあるが、生徒たちが共感するポイントである。生徒たちも隣の子が叱られているとき、何気ないふりをして教科書を覗きこんだり、いたずらにページをめくったりする。そして大抵そういう時は、叱られている友達をかわいそうに思いながらも、「自分でなくてよかった。」という無関心な感情を持っている。この団員たちも生徒たちと同じである。「気の毒そうに思いながら」も、結局のところ「叱られたのは自分ではない。」と知らん顔をしている。それは逆に他の人が叱られる場面でのゴーシュの心理からも読み取れる。「またかとゴーシュはどきっとしましたが、ありがたいことには、今度は別の人でした。」という場面だ。そして「ゴーシュはそこで、さっき自分のときみんながしたように、わざと自分の譜へ目を近づけて、何か考えるふりをしていました。」と続く。ゴーシュも同じように叱られたのが自分でないことに安堵をおぼえ、知らないふりをはじめる。そして、合奏が終わると、団員たちとゴーシュの間に会話はなく、ゴーシュを置いて皆はそれぞれ出て行ってしまう。ゴーシュだけが独りとりのこされて「ぼろぼろなみだをこぼし」セロの練習を始める。彼と一緒に残り、彼を教え、指摘する人間は現れない。
これは何もこの「金星音楽団」の不仲を言いたいのではなく、この自分を守るための他人に対する無関心さは人間なら誰しも持ち得る感情だということを言いたい。「下手なゴーシュ」がいることで自分が叱られないで済む、と(意識的にも無意識的にも)安心している団員はいなかっただろうか。
中学生の生徒たちもそうだ。自分を守るために「自分より劣っている子」を自然と求めて探し出す。それは中学生という新しくも不安なステージで、被害の少ない居場所を探すのための当然の行為だ。「三毛猫」のように嫌われても図々しく、「かっこう」のように音楽に真摯に向き合い、「子だぬき」のように無邪気に非を指摘し、「野ねずみ」のように謙虚に感謝する。そのような「人間」はリアルではない。やはりゴーシュの成長を促すのは「動物」でなければならなかった。
しかし、前述したとおり、ゴーシュも他人への無関心を持つ人間だ。彼の方こそ仲間たちを信じていなかった。最後に「楽長」と「ヴァイオリンの一番の人」が本心でアンコールにゴーシュを推した時も、「どこまで人をばかにするんだ」と、馬鹿にされていると誤解した。周りが「下手なゴーシュ」と位置付けたと同時に、ゴーシュ自身が「下手な自分」を作り上げ、その殻に閉じこもっていたのである。そんな彼に団員仲間たちの(おそらくあったであろう)優しい言葉は聞こえていなかったのではないか。それ以上に怒声の方が多く聞こえていて、あったとしても「馬鹿にされた」と受け付けなかったのではないか。彼が団員たちの言葉をちゃんと認識するのは、最後の晴れ舞台がおわってからだ。仲間たちの「よかったぜ」という言葉をゴーシュはしっかり認識する。その後の団長が離れた「向こうで言っている」誉め言葉も耳に入る。このシーンはゴーシュの目や耳にかかっていたベールが外れていくような描写だ。自分の一人の殻をやぶって、やっとゴーシュはみんなと同じステージに立てた。これからは「動物」ではなく「リアルな人間」との交流が始まる。彼がまたどう成長するのかはこれからの話である。
今回で「セロ弾きのゴーシュ」は終わります!長い文章になりましたが、お付き合いありがとうございます!
次回からは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」をとりあつかっていきます!
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