宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」②

宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」

「野ねずみの役割」

 

「セロ弾きのゴーシュ」は、下手だったゴーシュが動物たちの影響を受けて、最後には上手くなっていた、というのが基本のあらすじだ。ゴーシュが下手な理由は最初から三つで提示されている。それは冒頭で楽団の楽長が指摘するセリフで示される。一つ目は『糸が合わない。困るなあ。ぼくは君にドレミファを教えているひまはないんだかなあ。』という箇所。二つ目は『表情ということが、まるでできてない。怒るも喜ぶも感情というものがさっぱりでないんだ。』。三つ目が『どうしてもぴたっと外の楽器と合わないもんなあ。いつでも君だけ、とけた靴のひもを引きずって、みんなのあとをついて歩くようなんだ。』の部分である。

 

この三つを整理すると、

①ドレミファの音程が合わない。

②表現力がない。

③周りの楽器と合わせられない(テンポ感がない、周りを聴けていない。)、

となる。この三つの克服点と対応する形で、それぞれの動物たちがゴーシュを訪ねてくる。

 

「三毛猫」はゴーシュに「怒り」という感情を持たせて『インドの虎狩り』を弾かせる。つまり、②の表現力をつけるためにやってくる。「かっこう」は『ドレミファを正確にやりたいんです。』という言葉どおり、①の音程を合わせにやってくる。「子だぬき」は小太鼓を叩いてセロと合わせにやってくる。そして『この二番目の糸を弾くときは、きたいに遅れるね。』と指摘する。(ここで指摘を素直にゴーシュが受け取るのは、前の「かっこう」がいたから。)つまり③の楽器に合わせる力をつけるためにやってくる。

 

ゴーシュの下手な部分

動物
ドレミファの音程だ合わない かっこう
表現力がない 三毛猫
周りの楽器と合わない 子だぬき

 

こう見ると、この三匹だけで物語はきれいにまとまる。「ゴーシュの克服点が示され、それに対応する動物がきて克服するきっかけを与え、ゴーシュはついに上手くなった。」この流れで本筋はクリアできる。

 

それでは最後に現れる「野ねずみ」の役割は何なのだろうか。授業中も生徒に投げかける。もうゴーシュは技術では上手くなった、もう解決しているはずだ、けれどもなぜ「野ねずみ」はやってくるのか。

 

「野ねずみ」は小さな病気の子供を連れてくる。そしてゴーシュにその子の病気を治してくれるように頼む。ゴーシュは、自分は医者ではないと驚く。話をきくと、ゴーシュの弾くセロが床下に響き按摩の代わりとなって動物たちを癒していたのだ。ゴーシュはその話どおりに、野ねずみの子供をセロの穴に入れ病気を治す。そして親子にパンを一かけら恵む。(「かっこう」のとき比べるとゴーシュの優しさは驚くぐらい成長している。)

 

この質問に生徒たちから「自信を教えに来た。」と答えが出た。もう少し詰めていくと、「自分のセロが誰かのためになっているという自信をつけるために来た。」という答えが導き出された。私はこれがこの作品で一番大切なことではないか、と思う。何をするにしても必ず挫折は訪れる。自分の限界を知ったときに、それでもその先に行ける力が何が必要だ。それは何だろうか。それは「自分のため」ではなく「誰かのため」という外からの原動力だ。自分の演奏を喜んで、応援してくれる人たちの存在は大きな自信となる。冒頭から『楽手のなかではいちばん下手』と言われているゴーシュに果たしてそんな自信はあっただろうか。野ねずみはゴーシュに『ありがとうございます、ありがとうございます。』と『十ばかり』言って帰っていく。ゴーシュにとって自分の演奏でそのように言われたのは初めてではなかっただろうか。

 

生徒たちにも考えさせる。どんなに上手くても、たった一人で進むことはできない。見てくれて、応援してくれて、拍手してくれる家族や、友達…たくさんの人がいるから今までがんばれたことは多いはずだ。そして、いま生徒たちは新しい部活、中学生という新しいステージに進んだ。これから小学生のときとは違う困難、悩み、嫉妬、自己嫌悪。たくさんのことが押し寄せる。その時に思い出してほしい。応援してくれている人が周りにいることを。無条件に生徒たちの栄光を祈っているたくさんの人がいることを。

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