芥川龍之介「蜘蛛の糸」①

芥川龍之介「蜘蛛の糸」

犍陀多は「悪」なのか

 

芥川龍之介の代表作である短編、「蜘蛛の糸」。まずはあらすじを簡単に述べておく。悪事を働き地獄に落ちた犍陀多(カンダタ)が「蜘蛛を助けた」という一つの善行のため、お釈迦様によって、地獄から抜け出るチャンスを与えられる。彼は極楽から垂らされた蜘蛛の糸を上って極楽を目指すが、後をつけて上ってくる罪人たちのせいで糸が切れることを恐れ、「この糸は自分のものだ。」と叫ぶ。するとその利己心のせいで蜘蛛の糸は切れてしまい、結局カンダタは地獄へと落ちてしまう。

 

 

私がこの作品と出会ったのは、小学校低学年だったろうか、テレビで放映していたNHK(今でいうEテレ)の人形劇だった。幼いながらも地獄の「血の池」や極楽の「蓮の花」といった独特の世界観に惹きつけられたのを覚えている。私は勝手に「昔話」の一種だとずっと思っていので、だいぶ後から芥川龍之介の短編小説だと知って驚いた。(話の材源自体は別であるが)

それなので、「あらすじ」自体はずっと昔から知っていた。そしてどこか心の片隅で「モヤモヤ」とした気持ちがあった。それは当時の私が幼すぎて、ハッピーエンドでない結末を受け止められなかったからか、「犍陀多がかわいそう」という同情的な不満であった。

 

しかし、それが歳をとるにつれて、「犍陀多は悪くないのでは?」という疑問に変わっていった。

「自分のことばかり考えるのはいけない。みんなのことを考えましょう。」という考え方は正しい。これは多くの人が賛同する教えであり、幼いころから言われ続けてきたことだ。その正義からすればカンダタの行いは確かに「悪い」。自分が助けることだけを考えて邪魔な他人を蹴落とすのは「悪行」である。私は幼いころ、この「正義」を大前提に「蜘蛛の糸」を捉えていた。つまり、悪いことをすれば地獄に落ちる、信賞必罰の教訓的なお話として捉えていたのだ。これを見ている子供たちはそうならないように、犍陀多のようにならないで、友達を助け合う良い子にそだちましょう。というテレビ番組として捉えていた。(人形劇では犍陀多が蹴落とすのは、見ず知らずの他人から彼の仲間に改変されており。わざと教訓めいた構成になっていた。)

 

しかし、大人になってしっかり文学作品として読みなおせば、犍陀多は「悪」ではない、という確信を得るようになった。その理由は単純である。「私もあの状況では犍陀多と同じことをするかもしれない」という可能性を否定できないからだ。

これは生徒たちにも議論をさせる。「犍陀多の行動を許せる理由」と「犍陀多の行動を許せない理由」を書かせて組別に発表させる。議論させてどちらかを選ばせるのだが、中学一年生の場合は大抵「許せない」の結論になる場合が多い。しかし、どの組もしっかり「許せる」理由を書けるのである。その理由は「自分もそうしてしまう。」が圧倒的に多い。犍陀多の行動にみんなが共感できるのだ。

 

「蜘蛛の糸」は鈴木三重吉らによって創刊された児童文学雑誌「赤い鳥」の創刊号に掲載された作品だ。芥川龍之介の最初の「児童向け」小説という位置づけをされている。しかし、この作品は子どもたちへ単に善悪の教訓を語っている作品では決してない。この作品は子ども向けの童話というファンタジーの世界を借りて、「人間」という生き物を鋭く捉えて描ききった作品だ。

人間は自分と他人を天秤にかけたとき、自分が本当に死と向き合った瞬間に、一体どういった行動に出るのだろうか。もちろんその時の事情や他人への心理は様々であろうが、「自分が助かる」方法を優先するのではないだろうか。それがもし他人を蹴落とすしかなかったら、自分だけはそうしない、と言い切れるだろうか。私も生徒もそのような場面にはありがたいことに出会ったことはない。だが、「自分が助かるため」なら…、という心理は想像できてしまう。そう考えると犍陀多の選択は「悪」ではなく、一般の「人間」としての選択であったと言える。

 

そういう読み方をしたとき、この作品はガラリと表情を変える。芥川龍之介が「人間」をどう捉えていたか。次回はもっと深く、芥川龍之介が「人間」に対してもっていた冷酷で暗い眼差しを読み解いていきたい。

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