ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」④

ヘルマンヘッセ「少年の日の思い出」

ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」④

「エーミールとぼくの罰」

「ぼく」は「エーミール」のヤママユガを盗みつぶしてしまう。それに気づいた「ぼく」はその事実にひどく失望する。前にも述べたが、これは「エーミール」への罪悪感ではなく、美しいチョウを潰してしまったという取り返しのつかないことへの失望だ。面白いことに、読み進めてみても「ぼく」は最後まで「エーミール」に対して罪悪感は抱くことがない。

 

罪を犯した「ぼく」は夕方まで悲しさに暮れて沈黙を守っている。しかしついに「母」に事実を打ち明ける。ここからの「母」の対応が手際よくて感心する。まず彼女は「ぼく」にあれこれ質問をすることも、小言を言うこともしない。「母は驚き悲しんだが、既にこの告白が、どんな罰をしのぶことより、ぼくにとってつらいことだったということを感じたらしかった。」として、ただ「エーミール」に謝りにいくことだけを促す。そして「自分でそういわなくてはなりません。」と直接「エーミール」に謝罪しなければならないことを「きっぱり」と告げる。

 こういう状況になったら「どうしてこんなことをしたの?」と問い詰める親もいるし、本人を無理やり引っ張って行って率先し謝罪してしまう親もいるだろう。しかし「母」はそれをせずに「ぼく」が「やってしまった」と自覚していることを直接謝らせる。なかなか真似できないことだ。この後、謝罪をして帰ってきた傷心の「ぼく」に根掘り葉掘り聞こうとしなかったところも含めて良い母親だなと思う。「ぼく」のことをこれから大人になっていく一人の人間として信頼しているからこそできる対応だと思う。

しかし「ぼく」は「あの模範少年でなくて、ほかの友達だったら、すぐにそうする気になれただろう。」と謝罪にいくのをためらう。「彼(エーミール)がぼくの言うことを分かってくれないし、おそらく全然信じようともしないだろう」と考えているからだ。ここでも「ぼく」は「エーミール」に対して罪悪感を持っていない。むしろ「エーミール」に対しての反感を露わにしている。ところで、ここで「ぼく」のいう「ぼくの言うこと」とは何なのだろうか。わざと壊したのではないということだろうか。しかし、大事なものを壊されたのだから、この言い訳は「エーミール」にとってなんの慰めにもならないだろう。それでも弁解をしたいと「ぼく」は思う。それはどこかで模範少年の「エーミール」によく見られたい、よく思われたい、失望されたくない、と思っているからではないだろうか。すでに下に見られているのに、またこれ以上見下されたくないという最後の抵抗のようだ。しかし、それも上手くいかないことを「ぼく」は知っている。やってしまったことがそれだけ取り返しのつかないことだからだ。そこで、自分の地位が落ちるのを「ぼく」は「エーミール」のせいにする。「エーミール」はわかってくれない。「エーミール」はそういう性格だから「ぼく」の気持ちをわかってくれないのだ、と。

そして、「ぼく」は彼の家に行ってもまっさきに謝ることはしない。だいなしにされたと彼が伝えたのにも関わらず、謝罪することなく、まずはそのヤママユガを見せてくれと頼む。これは言い出せなかったとも読み取れるし、前の記事にも書いたが、「エーミール」のものを壊したという事実よりも、自分が「チョウ」を壊したという事実の方が「ぼく」にとってより重要だということを表しているようにも読める。壊れたヤママユガをもう一度見て、初めて自分のしでかしたことを受け入れたのかもしれない。

その後、「ぼく」からの謝罪のシーンは特に描写がない。これは語っている「ぼく」が思い出したくないのか、早口で済ましたのか……。いずれにせよ「ぼく」にとって最も辛い瞬間だ。ここでも「ぼく」は罪悪感を抱いていない。謝罪に心を込めるよりも、必死に弁明することに重点を置いている。「エーミール」の前で惨めな思いはしたくない、という気持ちだからだろうが、より一層「ぼく」の幼さが際立っている。

そしてそんな「ぼく」を「エーミール」は最もキツイ方法で突き放す。

「エーミールは、激したり、ぼくをどなりつけたりなどはしないで、低くちぇっと舌を鳴らし、しばらくじっとぼくをみつめていたが、それから、『そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。』と言った。

「ぼく」を見下す「エーミール」の言動の無駄のなさ! これまた手際よく素晴らしい(笑)。「エーミール」がまだ怒鳴って泣いて激しい怒りをぶつけたなら良かっただろう。「ぼく」とおなじ水準で怒ってくれたなら、「エーミール」も同じ少年として話してくれたのなら「ぼく」もまだ救われただろう。しかし「エーミール」は「ぼく」を見限った。軽蔑し「そんなやつ」として相手にしなかった。「ぼく」と「エーミール」の間にあった階級は、確定的で永遠なものとなった。(少なくとも少年の「ぼく」はそう確信している。)

 大人や年上のものに相手にされないことはある。しかし同級生にこの仕打ちをくらうのはかなり辛い。それも「嫉妬」といいながらも「憧れ」に近い感情を抱いていた相手にされては、惨めでしかたがないだろう。「エーミール」が大人だったら、幼い少年のやった事だと寛大に許したかもしれない。「エーミール」はあくまで模範少年として、「ぼく」を軽蔑したのである。

 それでも「ぼく」はチョウのことで難癖をつけらたら、自分の罪を忘れてキレてしまいそうになる(笑)。けれどもいくら悔しくてもここは耐えるしかない。「エーミール」には「ぼく」をなじる権利があるからだ。もうここらへんは、仕方が無いとしか言えない(笑)。「ぼく」が許しを乞うチャンスすら突っぱねられてしまう。

生徒達から「エーミール」がきつすぎるとの意見もあるが、「ぼく」の言動を見ていると、罪悪感を持って心から謝罪していないのも目につく。「エーミール」に対する嫉妬から、彼を「悪者」として決めつけてしまっている部分が大きいように思われる。多分「ぼく」も仲の良い友達相手ならもっと素直に謝っていただろう。今回に関しては相手があの「エーミールだから」というのが「ぼく」の中で大き理由になっている。

 そして「ぼく」は夜に自分のチョウ採集を取り出して、一つずつ潰してしまう。よく生徒たちに「なぜぼくはこんなことをしたのか」と質問する。「エーミールが罰を与えてくれなかったので、自分で自分を罰した」というのが、答えらしいのだが……。実は私はあまり納得していない。先ほどから主張しているが「ぼく」は「エーミール」に対して罪悪感なんてこれっぽっちも持っていない。むしろ「エーミール」を悪者にしたてたい欲求も持っている。(言いすぎか?)だから、「罰を与える」というのは間違っていないが、「エーミール」に対する「罪の意識」では断じてない。私は、この「罰」の理由はもっと利己的なものから来ていると思っている。

 一つ目は「少年時代との決別」。自分は罪を犯す側にいて、その罪は取り返しのつかないということを知った「ぼく」は、もう無邪気な少年ではいられない。昨日と同じ明るい気持ちでチョウを追いかけることはできない。またチョウ採集が「ぼく」の少年期を象徴するものであったのだから、けじめをつけるためにも潰したのだろう。

 

 二つ目は、少し「ぼく」に対する悪意を持っての批評になるが、「悲劇の主人公としての行動」だと思う。「ぼく」の視点からみると、「ぼく」は常に被害者として自分を語っている。自分のしたことは一応悪いと言っているが、自分を理解してくれない「エーミール」は悪者であり、自分の心を傷つけた冷血な少年として描かれている。そんな「ぼく」は心に傷を負ってかわいそうな存在だ。そんな「ぼく」は「エーミール」によって、もっとかわいそうでなければならない。無意識かもしれないが、そんな感情からの行動だったと思う。

 私は「ぼく」はその後、暗く陰気な青年になったと予想している。(これは中高生あるあるなのだが。)そして「エーミール」には自分から絶対に話しかけないし、目を合わせようともしなかっただろう。「エーミール」のことを避けまくって、「エーミール」模範少年として表彰されるたびに下を向く。そして「自分は悪いやつだ。自分はエーミールにはなれない。自分なんていなくなればいいんだ。」と、たっぷりいわゆる中二病を発症させる。ちなみに上記のセリフの本音は「エーミールはぼくを理解してくれない。」で、そこからの「誰もぼくの辛い気持ちを理解してくれない。」となる……。(やりすぎか笑。)

 まあ、自分の限界を知って少年期を終えた大抵の人間は、一度こういう時期をはさむだろう。(毎日中高生を相手にしているとそう思えてくる。)

 とにかく「ぼく」は「エーミール」に悪を押し付けることで、なんとか自分の無力さや惨めさを回避している。

 そして「ぼく」はこの「思い出」を暗く胸の内にしまったまま大人になった。陰鬱に過ごしても楽しい日々はやってくる。その時ごとの忙しい記憶の積み重ねによって「少年の日の思い出」は胸の奥底にしまわれていった。向き合うこともなく、反省することもなく「ぼく」は大人になった。そして久しぶりに友人のチョウをみることで思い出し彼に語った。最初の記事にも書いたが、誰かに語ったことで「ぼく」の気持ちが救われることを望んでいる。畏怖していた「エーミール」を客観的に見直して、彼も自分と同じような少年であったことに気付いてほしい。そして自分の卑屈な態度や考え方が幼稚だったことを知って、直接でなくても心からの謝罪をしてほしい。それが「大人」だからできる唯一のことだと思う。

 書きながら、自分にもこんな時期があったな、と思っている。自分が悪いのに、他人のせいにして、そのうえで「自分は駄目な人間だ。消えてしまえばいいんだ。」という悲劇の主人公ぶる(笑)。成長過程として仕方がないのだろう。中学3年生の生徒たちも、多くが同じ状況にいるのだが、どのような角度でどこまで深く読むべきなのか困ってしまう作品だ。(つまりそれだけすごい作品ということだ。)

 時間がかかってしまいましたが「少年の日の思い出」はこれにて終了です。じつは他の教材よりも、毎回深く読めないまま「感じろ!」という姿勢で教えていたので、時間がかかってしまいました。今回なんとかまとめられて良かったです。(どうやって教えるかはまだまだ考え中……)

 次回は森鴎外の「最後の一句」。好きな作品なのでがんばって更新していきます!

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