ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」③

ヘルマンヘッセ「少年の日の思い出」

ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」③

「なぜヤママユガを盗んだのか」

「ぼく」と「エーミール」の関係は「ヤママユガ」盗難事件によって取り返しのつかないものとなる。「ヤママユガ」は「ぼく」の憧れのチョウであった。ところでこのチョウは、教科書には「ヤママユガ」という名で掲載されているが、原作では“Nachtpfauenauge”と記されている。当時、このチョウは日本語で直訳された名前を持たなかった。その後さまざまな研究がなされ、原作のチョウが特定され、「クジャクヤママユ」という和名になったそうだ。だから書籍によっては「クジャクヤママユ」という名前で登場する。調べると、そもそも「ヤママユガ」というチョウは日本原産の生き物だ。読者である日本の少年たちが本の世界に没入できるように、似たような日本のチョウをあえてあげたのだろう。原作とはイメージがズレるかもしれないが、当時の読者を考えたであろうこのような計らいは個人的に好きだ。

とにかく「ヤママユガ」と画像検索をして出てくるチョウと、「クジャクヤママユ」もしくは“Nachtpfauenauge”と検索して出てくるチョウは種類が違うので注意が必要だ。ちなみに最初私は「ヤママユガ」で検索し、そのチョウを見て「え、うちの学校によく出てくる大きな娥じゃないか!」と思った(笑)。山の中にある学校なので、街ではみかけない大きめの娥がよく校内に入って来る。細かい種類は違うかもしれないが、羽根に似たような目を持つ娥は確かに見かける。そして、この教材を教えると、生徒たちは校内に転がっている大きめの我を見つけては「これヤママユガじゃないですか?!」と言ってくる。しかし本物の“Nachtpfauenauge”は、「ヤママユガ」よりも全体的にふわふわした毛に覆われていて、なにより「羽根の目」がさらに印象的である。「ぼく」もこの目に吸い込まれるようにして、盗みを働いてしまう。

「四つの大きな不思議な斑点が、さし絵のよりはずっと美しく、ずっとすばらしく、ぼくを見つめた。それを見ると、この宝を手に入れたいという、逆らいがたい欲望を感じ、ぼくは生まれて初めて盗みを犯した。」

 衝動的な盗みを働いてしまった「ぼく」は、その時は「大きな満足感のほか何も感じていなかった」。しかし、他人との遭遇によって「良心は目覚め」、慌ててポケットにチョウを突っ込んで潰してしまう。もしこの時、他人と会うことがなければ、「ぼく」はどうしていただろうか? 自分の部屋に持って帰ってひとしきり眺めたあと、同じように良心に目覚めてこっそり返しただろうか。それとも今更返しにもいけずに、びくびくと怯えながらも隠しただろうか。少なくとも、自分の物にして堂々としらばっくれるような度胸は持っていないように見える。

 それはさておき、私が面白いと思うのは、この作品が「エーミール」との関係を通して「ぼく」の少年期の終焉を描いた作品なのに、この一連のシーンは「エーミール」が一切関わらないことである。「ぼく」は「ヤママユガ」が「エーミール」のものだから盗んだのではない。ただ「手に入れたい」という衝動によって盗みを働いた。また、「ぼく」がチョウを潰してしまったということに気付いたときも、

「盗みをしたという気持ちより、自分がつぶしてしまった、美しい、珍しいちょうを見ているほうが、ぼくの心を苦しめた。……それをすっかりもとどおりにすることができたら、ぼくは、どんな持ち物でも楽しみでも、喜んで投げ出したろう。」

と、「エーミール」への罪悪感よりも、大好きなチョウを潰してしまった後悔を強く感じている。また、全てを打ち明けてエーミールに「きみがちょうをどんなに取り扱っているか、ということを見ることができたさ。」となじられた時も、「ぼくは、すんでのところであいつののどぶえにとびかかるところだった」と、強烈な怒りを表している。

これらの描写は「ぼく」のチョウに対する強い愛情を示している。「ぼく」の少年期の終焉は、「エーミール」との関係だけでなく、「チョウ」との関係にも大きく関わっている。一番の憧れを自分の手で潰してしまった経験。取り返しのつかないものがこの世にあると知った経験。このような経験は「エーミール」の存在の有無には関係なく、「ぼく」の少年期を終らせた。自分はいつでも破壊者、加害者になれること、すべてを解決する魔法は存在しないこと、道徳的にいけないことだと知っているのに、欲望の衝動をおさえられないこともあるということ。「ぼく」はこれを自分の体験を通して知ったのだから、もう「無邪気な少年」でいられることはできない。

ところで、この潰す対象が「チョウ」であったのもとても印象に残る。「チョウ」という生物は、私たちにとって身近なわりに、文化のなかではよく重要なものとして取り扱われていることが多い。一番身近にいて「魔力」を感じる特別な存在だと思う。

例えば「チョウ」は古くから、アジアでは「胡蝶の夢」がある。荘子がチョウの夢をみるのだが、自分がチョウの夢を見ているのか、それともチョウが本当の姿でチョウが人間の夢を見ているのかわからなくなったという説話である。また、西洋でも古くから神話で精神や魂を意味する「プシュケー」はチョウの羽を持つ。幼少期から身近であって、工芸品のように美しい羽を持つ小さな生命。その精工な美しさのわりに、少年の手でも潰せてしまう儚さ。そのような要素が人々にとって特別な意味を与えてきだのだろう。この作品でもチョウの美しさと儚さが、そのまま少年期の美しさと儚さを象徴している。「ぼく」は「チョウ」の持つ魔力に魅了されて、普段ではきっと行わなかったであろう盗みに手を出してしまった。

ところで、私自身も「チョウ」には苦い思い出がある。うちには小さな花壇があり、私は軽い気持ちで食べた後にでるオレンジの種をそこに植えた。するとオレンジの木が小さいながらも育ち、そこに毎年アゲハ蝶が卵を産み付けるようになった。

卵は孵り芋虫となって成長していくのだが、アゲハ蝶として成体になるのはいなかった。幼虫のころに鳥に食べられることや、さなぎの時に蜂にやられてしまうこともあった。しかし、ある年に無事にさなぎまで成長した個体が家の玄関にはりついた。私はついにアゲハ蝶の羽化が見られるのだと期待した。しかし、まだ春になりきっていないうちに、その蝶はさなぎから飛び出してしまった。母に理由を尋ねると(母はその当時、理科の教員だった笑)、「冬にしては暑い日があったから、春だと勘違いして飛んで行ってしまったのだろう。まだ寒い日は続くからきっと生きていけない。」と母は教えてくれた。

 哀れなアゲハ蝶がなんとか生き延びる方法を、私は子どもながらに考えた。しかし答えは出なかった。どんなに祈っても、アゲハ蝶が死に向かっているのは明白だった。やっと春が来たと思い、大空へと飛び立ってしまったアゲハ蝶のことを考えると胸が痛んだ。私はこの経験から、初めて「どうにもならないこと」が存在する事実を理解した。それまではどこかで何かしらの魔法があると信じていた。しかし、私には時間を戻すことも、春を早めることも、アゲハ蝶の命を救うこともできなかった。私は無力だと思い知った。このように、私にとっても「チョウ」は少年期の終わりを告げる存在であった。

「ぼく」は「チョウ」を潰したことで、人間の弱さを知る。無限に光り輝いていた世界は有限であった。そして自分は愚かだと気が付いた。「エーミール」への感情に目が行きがちだが、この事件は単体としても十分に少年の心を傷つけたのである。

 新学年が始まりました。忙しいのは変わりませんが、これからものんびりと更新していきますので、どうぞよろしくお願いします。もう少しだけ「少年の日の思い出」については考えをまとめていきたいと思います。

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