壺井栄「坂道」

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壺井栄「坂道」

 

「個人の誇りと社会の問題」

 

「二十四の瞳」で有名な壺井栄の小説、「坂道」。戦後の苦労を人情でのりこえる庶民の強さ、明るさを描いた作品だ。ちなみに、朝鮮学校の生徒たちにとって、壺井栄は小学校6年生で習う、壺井繫治(詩「あいさつ」)と夫婦だ、と言う方がピンとくる。中学一年生の最後に習う長編小説としてこの「坂道」が教科書に登場する。

 

 

まずあらすじを紹介する。「道子」という少女の家に、戦争で両親と別れた「堂本さん」という青年が居候を始める。彼は道子の家族に助けられながら仕事を探すがうまくいかない。結局、道子の父親と同じ「屑屋」になる。仕事が上手く回り出し、お金もたまった堂本さんは道子の家を出て、一人暮らしを始めることに決める。しかし、その引っ越しの道中に、戦災被害に遭わなかった高級住宅街で、道子の家の犬が、金持ちの犬に噛まれるという事件が起きる。この騒動にかけつけた警察は、あからさまに金持ちに媚びを売り、堂本さんや道子を軽蔑する。しかし、堂本さんは職業を尋ねられたとき自分は「屑屋」だ、と答える。これにより、更に軽蔑を露わにする警察だったが、ひとまず金持ちの飼い主から形だけの謝罪をもらい、堂本さんと道子たちはその場を後にする。道子は職業をこれから「屑屋」と言わない方がよい、と提案するが、堂本さんは「屑屋も立派な仕事」だと告げる。二人は引っ越しの荷物を載せた大八車を、力を合わせて押して坂道をのぼっていく。

 

 

 

題名の「坂道」は「人生の困難」を比喩したものであり、それを戦争で苦労した二人が力を合わせて乗り越えていく姿は美しい。また、「道子」の家族が他人の息子である「堂本さん」を本当の家族のように助ける姿は人間の暖かさや強さを感じ、心が温かくなる作品だ。

しかし、気を付けて読みたい部分もある。

一つは「屑屋」についてである。「屑屋」とは、いわゆる廃品回収をする職業だ。ゴミを集める仕事という認識から、「屑屋は汚い。」「屑屋は臭い。」といった偏見をもつ職業である。

堂本さんも「屑屋なんで、ほんとに人間の屑がする商売だと思っていた」と言っている。しかし、実際に働いてみて、人間との関わりの中で意義を見つけていき、「屑屋は恥ずかしい仕事じゃあない」という結論に達する。確かに、職業で人を馬鹿にするのはいけない。「自分のうちの動物掛け、愛護する金持ちより、よっぽど、屑屋の方が立派さ」というのも納得ができる。

しかし、道子の父親も「お父さんだとて屑屋で満足していたわけでは」なく、結局倉庫番という仕事につく。母親も「堂本さん、あんた、屑屋で満足しちゃあだめよ」と、堂本さんに助言をする。そして彼は「弁護士になる」ことを決意する。つまり、登場人物たちは「屑屋」を続ける気がない。できることならより良い職業につこうとしている。個人が偏見を捨て「立派な仕事」ということはできても、結局のところ「屑屋」が社会の中で底辺職業であることに変わりはないからだ。

問題なのは、貧困層や、被差別部落の人間、在日朝鮮人たちが、他の職業につけず、「屑屋」にならざるをえなかった、という差別構造だ。

在日朝鮮人の問題でいうならば、「国籍」のせいで、就職できない、部屋を借りられない、は現在にも続いている問題だ。現に我が校の卒業生が父親の国籍の問題で去年アパートの入居資格を取り消されるということがあった。

堂本さんはこの後、弁護士を目指して勉強を始める。しかし、この時代に在日朝鮮人は弁護士になる資格はない。国籍条項を廃止する運動の結果、1977年に最高裁で認められるまで、その権利は認められなかった。堂本さんのように、勉強して弁護士に、という夢を見ることすらできなかった。

 

 

もちろん、堂本さんのように、屑屋という職業を通して地域の住人との交流もあり、それぞれが信頼し合って関係を築き、定着していったのも事実だ。そこには人同士の暖かい交流があっただろう。それに誇りや生きがいを持つことは間違ったことではないし、お互いが人として尊敬の念を感じることは大事なことだ。

気をつけて読みたい部分二つめになるが、人同士の助け合いや、苦労の中に生まれる人情は美しいが、その美しさだけでは足りない。なぜなら「貧しい」ことに変わりはないからだ。そして道子や堂本さんのことは眼中にない富裕層も変わることなく存在する。その現実を不可変のものとして、貧しい側の人たちの美しさだけを見ているのは、本当の問題から目を逸らしているのではないだろうか。「お金持ちにならなくても、心が豊だから良いではないか」という言説は、搾取側を許し、被搾取側をなにやら「美しいもの」として留めようとする。道子や堂本さんに「一生貧乏でいろ。」と言っているのと同じことだ。

 

 

これは「坂道」という作品自体の批判でもあり、私の物語を読む時の心がけにしたい、と思っていることだ。つまり、「個人」の感動の背景にある「社会」に目を向けること。個人の善悪を生む、「社会の善悪」をしっかり見ること。このような読み方を私は大学と大学院の時代に習ったが、小説でも、テレビや映画でも、読み方の幅がだいぶ広がった。中学一年生の生徒たちに教えるにはまだ至っていないが、教科書の作品にも社会的な視点は続けて持っていきたい。

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