芥川龍之介「蜘蛛の糸」② 

芥川龍之介「蜘蛛の糸」

「犍陀多が蜘蛛を助けた理由=お釈迦様が犍陀多を助けた理由」

 

「蜘蛛の糸」を読んだ後、生徒に疑問に思うことを尋ねる。すると、必ず出てくるのが、「犍陀多は大泥棒なのになぜ蜘蛛を助けたのか」という問いだ。

犍陀多は「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろな悪事を働いた大泥棒」である。「それでもたった一つ、善い事をした」のは、道を這う小さな蜘蛛を踏み殺そうとして『いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀相だ。』と、踏みとどまったことである。

殺人を犯しているのにもかかわらず、蜘蛛に対して「命を無暗にとる」ことは「可哀相」という理由で助けている。確かに一見不可解な話である。蜘蛛の命は可哀相だと言うのに、人の命は何とも思わないのか…。しかし、ここでそもそも犍陀多がなぜ人を殺し、放火をするのか、ということを考えなければならない。彼は「大泥棒」だ。大泥棒が人を殺すとき、それは何かしら「利益」があることが予想される。泥棒としてより多くの利益を得るために必要なら彼は殺人を犯し放火もする。

 

しかし、蜘蛛はどうだろう。蜘蛛を殺すことで犍陀多は何の利益も得られない。この蜘蛛が死のうが、生きようが、何の利害も生まれない。簡単に言ってしまえば犍陀多にとって生きようが死のうが「どうでもよい存在」だ。つまり、犍陀多が蜘蛛を助けたのは本当にただの「気まぐれ」なのである。別段、助かろうが、その後どうなろうが、大きな問題ではなかった。犍陀多は理由があって人を殺し、気まぐれで蜘蛛を助けた。

 

これは私にも経験がある。蝶やトンボが部屋に入り込んでしまい、外に出ようと窓ガラスに体当たりをしていると、「可哀相」と思って出してやろうとする。それは上手くいく時もあるが、なぜか頑なに開いた窓から出て行かず、ずっと窓ガラスに体当たりを繰り返すものもいる。それに対して「なぜ、わからないのだろう、馬鹿だな。」という気持ちになり、他の予定があればそのまま放っておく。つまりその後、助かろうが、力尽きようが、特に関心が向くことではない。

 

ここで、もう一つの生徒たちの疑問に注目する。「なぜお釈迦様は犍陀多を助けたのか」

犍陀多は人を殺し、放火をし、盗みを働いた罪で地獄に落ちた。それをお釈迦様が助ける理由は「蜘蛛を助けた」の一つである。助けたといっても「踏み殺すのをとどまった」というとても消極的なものだ。私たちの目から見ると、どう天秤にかけたところで、犍陀多の罪の方が重い。蜘蛛を助けたことを評価して地獄から助けだそう、という気持ちには到底なれない。生徒たちが疑問に思うのは当然である。

 

しかし、ここでその判断をくだすのは極楽にいるお釈迦様である。お釈迦様は「蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになって」いる途中、つまり散歩の途中に偶然、地獄の犍陀多を見つけ、助けようと蜘蛛の糸を地獄に降ろす。結果は犍陀多が自分だけが助かりたい、と利己心をだしたせいで糸が切れてしまう。しかし、お釈迦様は「この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。」と、悲しみながらも何事もなかったかのように朝の散歩を続けるのである。お釈迦様は落ちてしまった犍陀多を助けるために再度糸を垂らそうとはしない。そして犍陀多の利己心は「お釈迦様の御目から見ると、浅ましくおぼし召されたのでしょう」と語り手によって評価される。

 

お釈迦様が犍陀多を助けた動機は、犍陀多が蜘蛛を助けたものに限りなく近い。また私が虫を助けようとする動機とも似ている。そして、「馬鹿だな。なぜ気づかないのだろう。」という考えも、犍陀多に対するお釈迦様の気持ちと一致する。蝶はすぐ横の窓ガラスが開いているのに気づかない。人は考える。「横を見れば開いているのに、なぜ気づかないのだろう」と。そして、犍陀多(人間)は他人を蹴落とさなければ助かるのに、自分だけが助かろうと利己心を出してしまう。お釈迦様は考える。「こんなに簡単なことがなぜ人間はできないのだろう。」と。

 

前の記事で、犍陀多の利己心は人間すべてに共通のものだと書いた。お釈迦様が助けようとしたのは「犍陀多」というなにも特別な個人ではない。すべての小さく無力で欲深い「人間」だ。お釈迦様にとっては、どちらの命がより重いという区別はない。だから私たち「人間」の立場から見ると助ける価値がないように見える犍陀多をお釈迦様は助けようとする。そしてそれは、お釈迦様からの「全人間」への救済であり試練である。しかし犍陀多は地獄に落ちてしまう。人間が犍陀多の利己心に共感出来てしまう限り犍陀多は地獄に落ち続ける。そしてそんな小さな人間にたいして大きな「極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事に頓着いたしません」。大きな世界では人間が利己心に苦しんでいようと、関係なく悠久の時間がゆったりと流れ続けているのだ。

 

犍陀多より以前にもお釈迦様は散歩中にふと蜘蛛の糸を下ろしたことがあっただろう。そしてこれからもふと思い出したように糸を「人間」に向かって垂らすだろう。次にお釈迦様が気まぐれに蜘蛛の糸を垂らすのは私かも知れないのだ。

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