「作者の位置」
「蜘蛛の糸」を読んで生徒たちに感想を言わせると、「~なのでございましょう」「おぼし召されたのでございましょう」などの文体が気になる、という生徒が表れる。確かに今までの小説にはない独特の言葉遣いである。生徒にどのような特徴があるか具体的に聞くと、『とても敬語が強い』『尊敬している感じ』と答える。普段私たちが目上の人に使う「敬語」よりもより仰々しいのは確かである。
けれども、よく見るとこの「敬語」はしっかりと使い分けられている。仰々しい敬語が使われるのは「御佇みになって」、「御思い出す」といった「お釈迦様」の行動を描写するとき、そして、「極楽はちょうど朝なのでございましょう」や、「きっと地獄からぬけ出せるに相違ございません」のように、客観的に世界(極楽でも地獄でも)を説明するときに使われている。しかし、犍陀多が特に意志をもって行動する時には「のぼり始めました」「見下ろしました」と、ただ丁寧語で書かれている。
ここでわかるのは作者が自分と世界をどのように捉えていたかである。前回、この作品がお釈迦様の属する「大きな世界」と、そこに絶対に行き着くことのできない「小さな人間」を描いた作品だ、と書いた。それでは作者の芥川龍之介はどこに属するのか。当然のことだが彼も「人間」である。彼もまた、欲深く、自分のために他人を蹴落とす「犍陀多」と全くおなじ「小さな人間」である。彼は自分も含め「人間」とは「そういうものだ」と、はっきり捉えていた。そんな彼が、作者として自分が作りだしたといはいえ、「小さな人間」である彼が「世界」や「お釈迦様」を描くとき、どうなるだろうか。それは先ほど述べたように当然仰々しくならざるを得ない。身体にしても「御足(おみあし)」「御手」「御目」と、一つ一つわざとらしいほどに自分より大きな存在として描かなければならない。作品の中で、「お釈迦様」や「大きな世界」は「小さな人間」が触れられることのない、本来描いてはいけない絶対的な領域として位置づけられている。言うならば不可侵である「神の領域」だ。そこの小さな気まぐれで人間たちの生死が決まり運命が変わる。芥川龍之介はそんな「世界」に対してできる限り頭を垂れて腰を低くすることでなんとか描いているのだ。(なんとなくだが、そんな自分の姿すらも嘲笑している作者が浮かぶのは気のせいだろうか。)
芥川龍之介の作品は利己心や偽善、優越感、他人からの評価、といった「人間」の弱さや醜さ、そして「それが人間の本質だ」ということを常に描いてきた。彼がそれを描くとき、それはつまり人間である「自分」と向き合う行為であった。もちろん、これは芥川龍之介に限った話ではないのだが、若くして自殺した彼のことを考えると、自分も含めた人間を本当に冷酷に見てしまったのではないか、と思ってしまう。
さて、授業でここまで作者について、この作品の本質について、生徒たちと辿り着くのはまだまだ難しい。完全に私の力不足であり、教える側の優越感を取り除けないからだ。生徒たちに思考させる前にどうしてもこちらから手の内を明かしたくなってしまう(笑)。そのせいで半分くらいの生徒は「ふーん…?」という表情で聞いている。しかし、数名は「え?作者はそんなこと考えていたんですか?頭おかしいんじゃないですか?」と、良い反応をくれる。(やはりこういう時が一番嬉しい。)
「蜘蛛の糸」について書くのは今回で終わるが、このように書いてみて思うのが、「芥川龍之介はよくもまあ、この作品を「児童文学」として発表したな。」ということだ。鈴木三重吉が自分の溺愛する娘のために始めた日本の児童文学活動。その第一歩である日本で初めての児童向け雑誌「赤い鳥」に発表されたのがこの作品だ。そこに「人間」の利己心と言う限界性を描いた作品を出すとは何とも彼らしい。まあ、逆に考えると、児童向けだから、ファンタジーだからこそ普段描けない「大きな世界」を描けたのかもしれない。何にせよ、短編ながらも完成度が高く、よく練られた作品だと、毎回驚かされる。
今回で芥川龍之介「蜘蛛の糸」は終わります。長文にお付き合いいただきありがとうございました!芥川龍之介は高2の「羅生門」があるので、またその時に語ります。
次回は志賀直哉「清兵衛と瓢箪」について語っていきたいと思います!
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