「冷静と情熱の間」
「三毛猫」は最初に来て、生意気な発言を繰り返し、ゴーシュを怒らせる。怒ったゴーシュは「三毛猫」をこらしめようと、『印度の虎狩り』(架空の曲)を勢いよく演奏する。その激しさに驚いた「三毛猫」は慌てふためいてゴーシュに許しを乞う。
前の文章で、この「三毛猫」はゴーシュに「怒りという感情を音楽で表現すること」を教えにきたと書いた。しかし、この言い方は少し語弊があるようだ。
「三毛猫」の態度に対して『生意気だ。生意気だ。生意気だ。』『ゴーシュはすっかり真っ赤になって、昼間楽長のしたように足踏みしてどなりましたが』と、怒りをあらわにするゴーシュだが、すぐに『にわかに気を変えて言いました。「では、弾くよ。」ゴーシュは何と思ったか、扉にかぎをかって、窓もみんな閉めてしまい、それからセロをとりだして明かりを消しました。』と続く。この時点で、すでにゴーシュは「三毛猫」を演奏でこらしめる計画を立てている。その後、「三毛猫」のリクエスト「トロメライ」(「トロイメライ」の言い間違い。)を聞いて、「まずハンケチを引きさいて、自分の耳の穴へぎっしりつめました。」。その後、『印度の虎狩り』を勢いよく弾き始める。
このように追ってみると、ゴーシュが感じているのは本当に「怒り」という感情だろうか。「三毛猫」の逃げ道を断ち、自分の安全を確保する動作は、「怒り」というよりもとても冷静だ。また勢いよく弾いている最中も「三毛猫」の慌てる様子をみながら、「ゴーシュはすっかり面白くなって、ますます勢いよくやり出しました。」と続く。確かに、ゴーシュは生意気な「三毛猫」に「怒り」を感じていたが、それをそのまま演奏にのせたわけではない。彼は「怒り」と共に「こらしめる」という冷静な意図が根底にある演奏をしている。
このような演奏時の感情は私も吹奏楽部だったからかとてもよく理解できる。演奏をするときに、「もっと感情を込めろ」という指摘はよくなされるが、これは「感情に流される」演奏を要求しているのではない。実際に演奏者が感情にまかせて演奏したらどうなるだろうか。気持ちが昂ったからといって激しく大きな音で演奏し、悲しい場面だからといって泣いて音が震えてしまっては音楽が成り立たない。特にみんなでひとつの音楽を作る合奏ではバランスがとれずにその楽器だけ浮いてしまう。つまり、楽器に感情を込める、表情を出す、ということは、その感情と共にそれを客観的に見られる冷静さが必要なのだ。(わが校の吹奏楽部顧問はこれを「冷静と情熱の間」と表現している。)
ところで、ゴーシュが「怒り」から「冷静さ」を取り戻したのはいつだろうか。私は明かりを消した後の「外から二十日過ぎの月の光が、部屋の中へ半分ほど入ってきました。」のシーンではないか、と思う。この一文は部屋の情景描写にすぎないが、うす暗い部屋にさす月あかりはゴーシュも感じただろう。そして彼の昂った気持ちにブレーキをかける要因となったのではないだろうか。
そして、この「冷静と情熱の間」は見事、最後の舞台でも繰り返される。アンコールに自分が指名されたゴーシュは『どこまで人をばかにするんだ。』と怒る。自分が下手なのを笑いものにするつもりで選ばれたと思っているからだ。けれども『よし見ていろ、印度の虎狩りをひいてやるから』の後は「ゴーシュはすっかり落ちついて舞台の真ん中へ出ました。」と続くのだ。観客を「こらしめる」という意図のもとに「冷静さ」を取り戻している様子がはっきりと描かれている。
けれどもおもしろいのは、ゴーシュはこのとき冷静に見ているのは観客ではない。彼は演奏後「ところが聴衆はしいんとなって一生けん命聞いています。」と一度だけ観客を見る。ここからの描写は状況描写であると同時に、ゴーシュの視点をそのまま描いているとみていいだろう。観客の様子は「ところが」という逆説の接続詞が示すようにゴーシュにとって予想外の反応であった。自分が下手だと思っているゴーシュにとって、そのような観客を直視しながら演奏などできない。舞台に立ったものならわかるが、そうするには相当強靭なメンタルが必要だ。だから彼は「三毛猫」の時をフラッシュバックさせる。前述の一文以降は観客の描写はされずに「猫」の様子が回想される。「猫が切ながって、ぱちぱち火花を出したところを過ぎました。扉へ体を何べんもぶっつけた所も過ぎました。」と、以前の「猫」を前にした演奏を真似ることで、なんとか最後まで弾ききるのである。そして「曲が終わると、ゴーシュはもうみんなの方などは見もせず、ちょうどその猫のようにすばやくセロをもって、楽屋へ逃げ込みました。」となる。
ゴーシュの最後の見せ場は最初の「三毛猫」との記憶に頼ることでなんとか成し遂げられた。彼がちゃんと「観客」を相手に「冷静と情熱の間」を発揮できるのは、まだまだ後の話のようだ。
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