森鴎外「最後の一句」①
「いち派か、まつ派か」
『最後の一句』は中3の2学期に習う教材だ。習うタイミングと内容の難しさから、私は中学校日本語授業の「ラスボス」と呼んでいる。
この作品は書かれた年代が大正四年なので文体も古く読みにくい。また舞台を江戸時代に設定しているので生徒たちが場面を想像するのも難しい。今の若い子たちが時代劇をほとんど観たことがない。そんな「最後の一句」を初めて通読する時、私は「いち」か「まつ」のどちらが好きかを考えさせるようにしている。主人公の「いち」は強い少女として描かれる。その対比として大人しく弱気な妹の「まつ」がいる。話は難しいが、この二人の少女の性格の違いははっきりと描かれているので、学生達もよみとりやすい。
読み終えた後にアンケートを取ると、「いち」派と「まつ」派に分かれる。学年にもよるが、女子は「いち」がかっこいいと言う場合が多い。逆に男子は「いち」は怖いので「まつ」を選ぶ生徒が多い。
余談だが、10年くらい前にある年「いち」の熱烈なファンになる男子が現れた。16歳だが小柄で幼く見えるのと強気な性格のギャップがよいらしい。彼女のセリフが出るたびに「かわいい。」と呟いていた坊主頭の彼は今も元気であろうか(笑)。
他にもこの学年の男子は「いくらかわいくても江戸時代の髪型だと嫌だ。」や「問題はお肌がキレイかどうかです。」などの意見が出た。私が「いち」のイメージは「おかっぱ」だと告げると「三つ編みもいいと思います!」と意見をくれた女子もいた。学力は高くなかったが、楽しく小説を読んでくれた学年だった。
ちなみに2022年度の生徒たちには「いち」の声優誰がいい?という質問を投げた。斎藤千和さん、石川由依さん、雨宮天さんなどの名前が挙がった。
初めて読むときはこれくらいの軽い気持ちで読んでくれたらいいと思っている。「難しい」と思われて敬遠されるとその後の内容が入らないのでできるだけ楽しくしたいと思う。それに「いち」の性格がつかめたら最初の読みとして十分だろう。
私も学生のときは「いち」の凛とした魅力がかっこよくて見えて好きだった。こういう冷静沈着で周りから一目置かれる少女に憧れた。しかしアラフォーになって読むと、出来すぎたキャラクターに森鷗外が描く「女性像」が見えてしまう 。
大きな権力に恐れず、そこに一石を投じる少女。この「いち」の性格は妹の「まつ」とは違う。また自分の運命を呪い行動力のない彼女の「おっかさん」とは似ても似つかない。出てくる女性の中で「いち」だけが独立したキャラクターである。なぜ彼女が強気に大人たちに抗えるのかは特に説明がない。「お上」の権力に屈しない彼女は、時代の背景から浮遊していて、それが彼女のミステリアスな魅力となっている。この作品の元になったのは江戸時代の随筆である。しかし「いち」をこのようなキャラクターに仕上げたのは、森鷗外の意向だ。「大きな権力に屈さず活躍する少女」というのはジャンヌダルクにはじまり、魅力的に映る。他にも創作物には類似するキャラクターがよく出てくる。「風の谷のナウシカ」の「ナウシカ」などがわかりやすいだろうか。「いち」とは性格の違いはあるが、彼女も大きな国家権力や武器に恐れず冷静に自分を貫く。一見力が弱く、大人しい(そうであるとされてきた)若い少女が、権力者である男性を圧倒するという物語は、そのギャップが魅力で人気がある。けれども皮肉を込めていうとそういうキャラクターは「現実ではありえないからこそ面白い」のではないのだろうか。ここらへんはフェミニズムの表象批評でさんざん言われていることなのでこれ以上は深めない。
「いち」は「怖いから好きでない」という「まつ派」の意見には、「弟妹たちを巻き込んで殺そうとするから。」というのもある。確かに相談をして同意した次女の「まつ」や、姉の考えを聞いて自ら志願した長男(養子)の「長太郎」は良いとして、「いち」は幼い「とく」や「初五郎」まで父親の命と引き換えにしようとしていた。ここら辺は現代の人間には受け入れがたい価値観だ。当時は「個人」よりも「代々続く家系」が重要視されていた時代である。その家の大黒柱が死罪になるというのは一大事だ。跡継ぎである「長太郎」を残して他の子供たちが死を選ぶのは、当時の価値観からすると理にかなっている。いずれ他の家に嫁に行くことになる姉妹と、養子ではあるが兄が家をつぐことになっている「初五郎」は「家」重視の価値観から見ると、とくに必要がない存在だ。
またこの時代は現代よりも「死」が身近にあった。医療も発展しておらず、幼い頃に死ぬ子どもたちも多い。兄弟姉妹全員が成人すること自体が珍しかったのではないのだろうか。当然、大人たちは子どもを大事にしてきたであろうが、「死ぬこともある」「死は仕方ないこと」という感覚も今より強かっただろう。跡継ぎである「長太郎」がいるのに、「とく」や「初五郎」を産んだのも、「長太郎」が病や事故で急に死んだときに「家の跡継ぎ」が必要だからである。ここらへんの「死」に対する身近な感覚は昭和くらいまで残っていたように思うが、現在ではわからない感覚だ。(「死」への感覚が時代と共に変わっていたことについては養老孟司さんの『自分は死なないと思っている人へ』という本に詳しい。)
わかるかどうかは別として、上のことは生徒たちに軽いタッチで説明する。まあとにかく初めて読んだ時に「いち」という少女が、「冷静に何かと戦っている強い主人公」くらいで受け止められたら良いと思う。
他に内容に入る前に「先輩」の立場か「後輩」の立場かどちらが良いかを尋ねる。中学三年生なので、生徒たちは後輩の立場も先輩の立場も経験している。これも答えは大体半分くらいに別れる。「後輩」の立場が良かったと答えた生徒は「何も考えないで楽しめたから。」という答えが多い。逆に「先輩」の立場が良いと答えた生徒は「自由だから。自分のやりたいことができるから。」という答えだ。先輩たちが怖いから嫌だったという答えもある(笑)。まとめると「先輩」になってから得られたものは「権利と自由」だ。そしてそれと同時に先輩としての「責任」も持つことになる。「後輩」の時は「責任」がないから、何も考えずに楽しむことができた。この「権利と責任」というキーワードは生徒たちに頭に入れておくように言う。
あとは「森鷗外」の軍医時代の話も紹介する。「脚気」に関する出来事だ。ドイツ留学で細菌の最先端を学んだ鷗外は「脚気」の原因を「細菌」だと主張した。しかしそれは全くの見当はずれで、原因は主食が白米になったことによるビタミンB1不足だと後で判明した。結局、鷗外が間違った判断を下したために陸軍で3万人が脚気によって病死する。
「権力者による間違った判断」これが及ぼす影響の大きさ。それを痛切に感じていたことを生徒たちに紹介する。
と、まあ最初から大分ヒントを与えつつ、できるだけ楽しい方法での作品導入を心掛けている。
寒いですね!! みなさん身体に気をつけて授業楽しみましょう!
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