「主張文を書こう」①

主張文

「主張文を書こう」①

題材選び

 中学三年生、一学期の期末に主張文を書く教材がある。我が校では、三年生全員に書かせて、11月の「中学生弁論大会」と「人権作文コンテスト」に送る作品を選抜する。

 主張文を書くにあたって、まずは構成から教えていく。「序論―本論―結論」のように基本的な形を教えて、本論の重要性を強調する。

 一つ目は「論理的であること」。誰もが納得できるように書く事を促す。そして二つ目は「説得力があること」。文章に説得力を持たすためには、まず書く生徒自身が一番納得して書かなくてはならない。ここで大事なのが生徒自身の「経験・体験」である。いくら良いことを言っていても、それを実感する経験がないと、読者の共感は得られない。簡単に例を言うなら、「戦争は人の命を奪う駄目なこと」という正論を、戦争に関心がなく、深く考えたことも無い人間がいくら書いても、そこに感動も新しい気づきも起きない。

 当然自分から離れた大きなことを、調べて書くことも重要ではあるが、私はできる限り「体験」を元にして書くことを推奨する。

 「体験」は二つに分けることができる。一つは「善」となる体験である。これはできることなら「自分の体験」がよいが、ないなら「他人の行いを見た体験」でも良い。自分が「善」と思ったことを、その理由と共に書き、他者に読ませることで、同じ行動や考えを広めようとする主張文だ。もう一つは「悪」の体験である。これは「他者の行いを見た体験」では少し説得力に欠けてしまう。(それを注意した、などの善の体験ならばよいのだが……)他者ではなく、自分の「悪」となる体験を反省し、自分を改めることで、他者にもそれを促す主張文が書ける。

 どちらにせよ、「自分の体験」の方がより説得力のある主張文が書けるのは言うまでもない。例えば、「老人に席を変わっている他人を見た。」という経験で主張文を展開したところで、「自分(作者)はやっているのか?」という疑問が読者に残ってしまう。

 他にも「当たり前」からどのように考えを深められるのか、も大事だ。例えば「空き缶を拾った。」という体験から、「ゴミを捨てずに拾うことの重要性」を主張することは可能だろう。しかし、それはみんなが知っている「当たり前」のことである。そして、難しいことに、それでも「できない」ことだ。いくら正論を言われたところで、道ばたにゴミを捨てる人はいなくならないし、絶対に道ばたのゴミを毎日拾う人もなかなか増えない。毎年何人かこういう題材を書く生徒が現れるのだが、「じゃあ、(自分も含めて)なぜそうならないの?」という問いにはみんな詰まってしまう。(そして、大体、こういう題材を選ぶ生徒は、本気でゴミのポイ捨てを悩んでいるわけではない。生徒が書きやすそうだ、と選ぶ題材が実は一番難しい。)

つまり、説得力のある主張文を書けるかどうかは、結局、その生徒の「経験・体験」の豊富さ、深さに関係している。だからいろんな経験をしている生徒の方が有利である。また、経験を通して考える深さも大事だろう。同じ経験でもそれに伴う感情や気づきは人によって違う。そうなると、朝鮮学校の生徒はある意味ではとても有利である。「朝鮮学校に通っている」「在日コリアンとして日本で暮らしている」という基本生活は、日本社会では特殊で異質だ。生徒たちは意識的にも無意識的にも、様々な影響を受けながら、生きているだけで、アイデンティティや権利に関する問題を「体験」している。具体的にはまた後の記事で書こうと思うが、私は主張文の指導を通してこの「体験」を言語化する機会にしてほしいと思っている。自分の出自に悩むことは、実は生徒たちは(意識的には)あまりない。ふとした時の違和感や、迷い、後ろめたさ、そういう小さな一瞬の心のひっかかりに、実はアイデンティティが詰まっている場合が多い。(これも次の記事で詳しく書きたい。)

私はそれをちゃんと言語化して、整理することは必要だと思っている。そして、その「体験」が普通の中学生には書けないこと、社会に生徒たちが出していかなければ絶対に伝わらないことを話し、そのような体験をしてことのある生徒たちはそれを選ぶように示唆する。

ただ、これは正直、難しいし、悩みどころでもある。難しい、と言ったのは教師として、という意味だ。先ほども述べたが、弁論大会や人権作文に応募するとき、いわゆるアイデンティティの話を全面に押し出すのは、一言で言うと「ウケが良い」。というより日本の先生方には新鮮に映り、とても目立つ。個性的な主張文として評価が高くなる。こちらとしても大会やコンクールでは当然良い賞を取りたい。また外からの評価は生徒たちの自信にも繋がる。そうなると、大会やコンクールに推薦するのはアイデンティティを押し出す主張文になる。すると、生徒たちは「そういう主張文だけが評価される」という風潮を感じ取ってしまう。そうなると、個性の為に書く主張文が、生徒が受けを狙って書くので、逆に似たり寄ったりの作品が生まれてしまう。一方で、そういう題材を書かない生徒たちが「やっぱり、そういうのを書かないと評価されないんだ」と穿った目でみてしまう。

当然、「朝鮮学校に通っている」というだけで、アイデンティティに疎い生徒もいるし、時期によっては、それ以上に主張したいもの、しやすいものがあるのも当然だ。

弁明のようになるのだが、私はアイデンティティが題材ではない主張文でも、その生徒が本心で主張している主張文が大好きだ。やっと友達を信じることができた経験や、介護のいる祖父に対する家族の苦労と愛の話、自分の努力で自信を持てた話、友達と一緒に勉強をした結果、試験点数があがった話……。全部が感動する本当に良い主張文だ。

当然、全員を評価はする。けれども、今年も大会やコンクールにあげたのはアイデンティティが題材の主張文だった。一人の多感な生徒からは「やっぱり、朝鮮に関する主張文が選ばれる」と不満も受けた。いや、実は介護の話も選んで応募したのだが、人権作文コンクールで賞をもらったのは、やはりアイデンティティが題材の主張文であった。これは、きっとこれからも抱えていかなくてはならないジレンマなのだろう。

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