井上ひさし「ナイン」②

井上ひさし「ナイン」

井上ひさし「ナイン」②

「正太郎の悪行はなぜ許されるのか」

「新道少年野球団」のキャプテンであった正太郎。彼は大人になって友達から「寸借詐欺」するようになった。そして中村さんの息子である畳屋の「英夫」と、豆腐屋の子だったが、今は自動車学校を経営している「常雄」もそれぞれ被害にあった。

 畳屋の「英夫」は八十五万円分の畳を盗まれた。「常雄」にいたっては、四百万の現金と奥さんまで盗られ、自殺をはかるほどに追いつめられる。また、「わたし」と「中村さん」からの会話から、ほかのナインのメンバーも被害にあっているのがうかがえる。

 

「正太郎」は悪いことをしている。これは事実だ。法的にみても悪いし、かつての戦友をだまし、裏切り、自殺にまで追い込んだのは、とうてい許されることではない。ではなぜ彼はこのような大人になったのだろうか。「正太郎」は野球団のキャプテンを務めあげるくらいだから、信望もあっただろうし、才能もあったはずだ。

 理由として挙げられるのは彼の家の事情である。父親の女癖が悪く、夫婦ゲンカが絶えず、「正太郎」はそのたびに家出を繰り返していた。短い文ではあるが、少年の心がすさんだ経緯はよくわかる。

 しかし、それでも彼の悪行(特に常雄に対する行い)は許せるわけがない。しかし、被害者の二人は彼を警察には突き出さなかった。それどころか、「英夫」は自分の成長を「正ちゃんのおかげ」と言い切り、「正太郎に対して常雄も感謝しているところもある」と言う。

「正ちゃんは一見、悪のように見えるけど、やはり僕らのキャプテンなんですよ。結局は、僕らのためになることをして歩いているんだ。」

 

 さて、授業で大事なのが、ここまでを読み、内容を知ったうえで学生たちが「理解できない」と、なることである。普通の倫理観を持っている人間なら、「英夫」のセリフは理解ができなくて当たり前だ。特に話題としてあがる(きっとかわいそうで登場させられなかった)、「常雄」の被害者っぷりはすさまじい。友達の恩義で雇ってあげたら、大金は盗まれ、女房は盗られ、自殺を図るまで追い詰められた。普通なら許せるわけがない。それでも彼らは許し、「正ちゃんのおかげ」で成長し、常雄の奥さんも改心した、と言い切る。理解ができない。

きっと主人公である「わたし」も理解できなかったであろう。だが、「わたし」は軽い相槌のつもりで「英夫」にこう返す。

「決勝戦までいっしょになってたたかうと、そこまでチームメイトを信じるようになるのか。うーん、わかるような気がする。」

 この曖昧で中途半端な共感に対して、「英夫」はきっぱりとした拒絶する。

「おじさんにはわかりません。」つづけて「父にもわかりません……」と強い口調で言う。

 この拒絶は「わたし」に対してだけではない。ここまで読んできた「読者」に対しての拒絶でもある。読者にとって「理解できない」のが正解で、中途半端な読解や、納得を求める読みを拒絶する。この作品は小説の「読み」(内容を理解するという意味での)を否定する。それはなぜか。言葉を飛び越えた場所に彼らが「正ちゃん」を許す理由があるからだ。小説は言葉によってできている。しかし、「正ちゃん」を許す理由は普通では言葉で表すことができない。だから、小説を読んでも理解できないのは当たりまえだ。

 そして、それは説明を試みようとする「英夫」の様子とセリフからもうかがえる。

「英夫くんは軽くうなりながら言葉を探しているようだったが、やがてこう切り出した。『口に出すと、なにもかもうそになってしまうような気がするんですが、ええと、そう……』」

 

当事者である「英夫」にも、ナインの体験ははっきりと言葉で表すことができない。

歌手の中島みゆきさんの歌に「ボディ・トーク」という歌がある。歌詞に「言葉なんて なんて弱いんだろう」と繰り返される力強く情熱的な歌だ。言葉は人の感情や気持ちを相手に伝えるために使われる。言葉は便利だが、逆に言葉を使っての伝達は言葉以上のことを伝えることができない。「英夫」が語るナインの思い出も、語ってしまえば、「言葉が意味するだけ」の話になってしまう。その「思い出」というのが以下のとおりである。

「……ベンチに戻ってぐったりしていると、さっと涼しくなりました。見ると、正ちゃんが僕の前に立って日陰をつくってくれているんです。正ちゃんにならってナインがぼくの前に立ち始めました。これが十二回まで続いたんです。僕が完投できたのは西日をさえぎってくれたあの日陰のおかげです。……」

「正太郎」が自分の身体で影をつくり、日照りから守ってくれた。言葉で書けばこれだけだ。一般的にみれば、なるほど、その時の感謝の気持ちはわからなくはないけれど、それでも友達を自殺に追い込んだのは許せない、となってしまう。だから、元ナインの少年たちは「あなたには解らない」と、一般的な解釈を拒絶する。

 またこの小説のすごいところは、この言葉にできない体験を書いて、読者に想像させ、感情を揺さぶらせることである。先にも書いたが、私は初読で涙があふれた。その時はなぜ涙が出るか、よくわからなかったが、とにかく涙があふれた。言葉で言い表せない、としておきながらも、小説というかたちで、言葉を使い、ナインの体験、感動を読者に伝えることに成功している。

 しかしこれには、読者の人生経験もものを言う。高校生たちは初読でピンと来ない。正太郎がヤバイ、悪い、という感想が先に来る。私も実際に高校生の時に読んでいたら同じ感想を持ったと思う。

 このナインのような体験は、誰もが必ずどこかで出会うと思う。私にも言葉にできない、私にしかわからない感動を経験したことがある。これこそ、いまここに書いたら陳腐で、嘘みたいな話になってしまうのだが……。  

私が自分ではどうしようもないことで、とても不安だった時、タイミングよく友達がメールをくれた。頻繁に連絡をやりとりしているわけでもなかったし、私の事情もまったく知らなかったはずなのに、その友達は偶然メールをくれた。そして私の話を聞いて「すぐにそっちに行く」と、何万キロ離れた場所から連絡をくれた。それだけなのだが、その時に、私は「ああ、私の人生はこの時のためにあったんだ。私はこの子のためなら死んでもいい。」とさえ、思った。

 きっと、これを読んでも、なにを、おおげさな、と思う人の方が多いだろう。そしてこの友達もこの出来事を特に覚えていないだろうし、言っても笑い話になれると思う。この子とは連絡を頻繁にとる間柄ではないし、特別に親しい仲というわけでもない。それでも、なにかあったときは絶対に力になろう、何があっても味方になろう、と勝手に思っている。

「英夫」が「正太郎」に感じている想いもこれに似ていると思う。真夏の影のないグラウンドで、ナインは本当に苦しかっただろう。その時の「正太郎」の行動は「英夫」にとって、「ナイン」にとって、かげがえのない思い出として残ったにちがいない。(こう言ってしまうと、やはり陳腐になってしまうのです)

 しかし、この作品は「友情」だけで終わらない。ここで前回の記事に書いた「新道通りの変化」が関わってくる。時代と共に都市化していく「新道通り」で、個人経営の店は失われていった。しかし、その中で残っている店がる。ピッチャー「英夫くん」と父親の「中村さん」が経営している「中村畳店」だ。

令和の時代から見ると、これから「畳職人」の需要は下がり、時代遅れで、経営がより苦しくなることが解る。それならば、いまのうちに店など手放して、郊外に大きな家を建てて、老後を楽に過ごす方が良い。一般的な人が見ればそう見えるはずだ。しかし、「中村さん」はそれを選ばなかった。

生徒たちに言う。「英夫が正太郎を許す理由」と「中村さんが畳店を売らない理由」は、実は一緒だと。これこそが作品の主題だと。生徒たちはこの時点だと「???」となる。けれども今年は「早く習いたい」と思わず口に出した生徒もいた。(ありがたいことです)

一般的に、合理的に判断すれば、「そうはしない」「それはおかしい」という選択を二人がしているのは何故か。次回はこの疑問を解きながら、主題に近づいていこうと思う。

更新が止まってしまい申し訳ありません。放置していたせいでエラー状態が続き、更新ができませんでした。どうにか更新ができるようになったので、また少しずつ書いていきたいと思います。

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