木下順二「夕鶴」②
「つう」への違和感、「観客」の立ち位置。
「つう」は「愛の世界」の住人である。「つう」は「愛」しか知らない。だから彼女の言動は生徒たちに「ヤンデレ」として映る。しかし、私が最初に感じたように、「つう」に対して同情できる気持ちもある。冒頭の「つう」と「与ひょう」、「子供たち」で構成されているシーンはまさに「平和」で「幸せ」な世界であった。誰だってこの幸せな世界が続くことを望むのではないだろうか。
しかし、前回も書いたように、「つう」の「愛」しか知らず、それに反する「かね」「かう」といった「欲」を知らない彼女のヒステリックな言動に、私たちは違和感を覚える。そして、ある場面で完全に「つう」から断絶される。それは、「つう」の以下のような独白シーンである。
「やめて。やめて。与ひょうを引っぱるのをやめて。ねえ。ねえ。ねえ。(外に出る)どこにいるの?あんたがたは。お願い。お頼みします。あたしの与ひょうを引っぱらないで。(あちこちへ)お願い、お願い、お願いします。お願いします。…いないの?…隠れているの隠れているの?出ておいでよ……卑怯……ずるい…ずるいわ、あんたたち……ねえ……ねえ……ええ憎い、憎らしい……ひとの与ひょうを……。出ておいでったら……。さあ、出ておいでったら……。」
このシーンは「与ひょう」が「愛」よりも「欲」を優先し、「つう」に布を織ることを強要しようとしたことで、「つう」があまりの驚愕からヒステリックになって言うシーンである。ここに出てくる『あんたがた』は、話の流れからすると、「与ひょう」に布を使った金儲けを教えた「惣ど」と「運ず」のことを指していると捉えるのが普通だろう。
しかし、これは「戯曲」である。ト書きに書かれているように、外に出て、あちこちに向かってセリフを言うシーンだ。この時、当の「惣ど」と「運ず」は物陰に隠れていて「つう」には見えない。舞台の上で「あちこちへ」向かって言うとしたら、それは必ず『観客』に向けられることになる。つまり、この「あんたがた」とは『観客』である私たち「人間」全員に向けられている。このシーンによって、私たちは愛と平和な世界を守る「つう」の理解者だったはずなのに、逆に「つう」から「愛」を奪おうとしている「卑怯」なものとして突き放される。それと同時に「つう」に恐怖にも近い違和感を覚える。「そこまで?」というような、生徒たちの「ヤンデレ、気持ち悪い」がしっくりくる感覚だ。
これこそがこの作品の主題であり、狙いである。私たち人間は、表向きは「愛や平和」が素晴らしいという。冒頭の「つう」の「愛の世界」をほほえましくみる。しかし、「与ひょう」の『そらおめえ、金はだれでもほしいでよ。』というセリフに表れているように、「愛」に対置されている「欲」も誰もが持っている。(それが「つう」にとっての『隠れている、卑怯』というセリフにつながる。)
作品が描きたいのは、この二つを持っていることが「悪」というわけではなく、「人間」とは「愛」と「欲」の両方を常に持つアンビバレンツな存在だ、ということだ。「つうの世界」を壊す「惣ど」「運ず」という「悪者」を舞台の上にあげておきながら、その「悪」は観客たちも同じてあることを突き付ける。「つう」の憎しみやとまどいが観客たちにも向けられることで、「つう」が対峙しているのは全ての「人間」であることが示唆されている。私たち人間は「欲」を絶対に捨てられない。「つう」に対して違和感を持つのは、私たちが「欲」を知っている「人間」でしかありえないからだ。
つまり、この作品は「惣ど」と「運ず」が悪者で、そそのかされた「与ひょう」が悪い、という単純な善悪の話ではない。善も悪も持ち合わせた「人間」そのものを描いた作品だ。
私は長い間、この作品を舞台で観ることができなかったが、今年になって動画サイトにあげられているのを観た。問題の「つう」が『あんたがた…出ておいでったら』のシーンは、自分の解釈があっているのか、ドキドキしながら観たが、予想以上だった。女優の鮫島有美子さんが舞台中央におりてきて、憎しみを込めた表情で睨みながら、力強く、まっすぐ観客の方を指さす。「つう」の「愛」からでてくる全ての怒りと憎しみが観客に注がれる。舞台では、「愛」しか知らない「つう」の「人間」全てへの憎しみが、戯曲ならではの演出方法でしっかり描かれていた。
さて、人間が「欲」を捨てられない存在だとしても、それだけではないのも事実だ。現に「つう」と「愛」をわかちあう「与ひょう」がいるし、観客たちも「つう」に同情の気持ち持つことができる。
次の記事では、「欲」と「愛」の描き方について、もう少しまとめてみる。この作品は「欲」と「愛」を描くために、登場人物たちにもう「ひとひねり」工夫をしている。それを中心に読みながら、私たち人間の生き方について考えていく。
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