「詩を書く」指導方法③

「詩を書く」

「詩を書く」指導方法③

「詩を読む」

今回は詩が完成した後に行っている活動を紹介する。

 私は完成した生徒の作品は必ず生徒全員に読ませる。これは、「作品」というのは「書き手」だけでは成り立たず、必ず「読み手」を必要とするからだ。読まれて、感想をもらって、評価されて、初めて「作品」は「作品」になる。自分だけの世界に閉じ込めていては「作品」としての価値はない、と思うからだ。

 作る過程にも、客観的に読ませるのは大事である。ひねった表現を使いたい生徒もいるのだが、ひねりすぎて何が言いたいのかわからなく生徒も少なくない。そういうときは隣の生徒に読んでもらっていいたいことが伝わるのか確認をとらせる。「読み手」に言いたいことがしっかり伝わっているのか、どうか。難しい表現を使うことが目的にならないように注意したい。

 作品が完成したら、名前を明かさず一つのプリントにまとめて生徒たちに配る。名前を明かさないのは、生徒同士の偏見を取り除いて、一つの作品としてどう思ったか、を知りたいからである。(少ない人数と書く内容によって、結局はばれてしまうのだが)そして、私が詩を一篇ずつ朗読し、感想を一行で良いので全員分書かせる。(生徒たちが自分たちで読めればいいのだが、漢字を読めない生徒のことを考えて、最初は教師が読むことにしている。)生徒がこだわった部分や、上手いと思う部分は私の感想を付け加えながら読む。

この時、注意したいのが生徒たちの反応である。

百人一首かるたを題材にした漫画『ちはやふる』に私の好きな言葉がある。それは、短歌を生徒たちが作ってくる課題で、出来上がった作品がプリントでくばられ、それを生徒たちが読むシーンに出てくる。何人かの生徒たちが作品をはやし立てて笑う。それに主人公は恥ずかしがるのだが、そこで教師がこんなことを言う。今、笑ったのは課題をちゃんと提出しなかった生徒たちだ、と。本気で作品を作った人間なら、他人の作品を笑うことはしない、と。そして『生みの苦しみを知りなさい。』と言うのである。

 私は他人の作品を笑い、馬鹿にする生徒は出したくない。そのためにも生徒たちが作る作品の完成度はあげる。自分が詩を一生懸命作った、という気持ちがあれば、生徒たいは他人の作品を笑うことはない。

 逆に、しっかり考えて作品をつくった生徒は、感想を書かせても「~の表現がすごいと思った。」や、「感情がよく伝わった、共感した。」と、作品の良いところを見いだして書くことができる。そのような経験が一つでもできると、他の作品を読む姿勢も変わってくるのではないか、と思っている。また、他人の心情を図る気持ちの成長などにもつながるのではないだろうか、と。

 そして、書かせた感想文は(これも無記名)その作者が読めるようにまとめて渡す。個人的に嬉しいのは「共感した。」という感想があることだ。二つ前の記事でも書いたが、「感情そのものは書かない。」をモットーとして書かせているので、その手法が上手くいったという証明になる。

 感想を書かせるときに、よくSNSの真似をして「いいね」だけを書くのだけは注意している。人に何かを伝えるときに、ボタン一つで出来てしまえるのは、ネット上だけの話である。当然、生徒によって長さに差異はあるが、いまのところ罵りや、馬鹿にするような感想は出たことがないので安心している。

 生徒たちはその感想を予想以上に喜ぶ。読んだ後は捨てるなり焼くなり好きにしろ、と言うが、その日に捨てる生徒は一人もいない。数カ月持ち続けている生徒もいる。このような経験がどこかで作品を作ることへの自信につながってくれればいいな、と思っている。

 ちなみに、私もこの授業をする前には必ず詩を作るようにしている。それに関してはもちろん生徒たちにも紹介する。それはどこかで「生徒に見せる」と考えて作る作品だから堂々と発表することができる。しかし、そのように意図していないものを見たい、と言われるとなかなか難しい。

少し前に「おーい、お茶俳句大賞」の二次審査に通過した作品を「見せてください!」と生徒にせがまれたが、必死に隠してしまった。生徒には「先生、作品は見せて感想をもらわないとダメだって言いましたよね?」と、言葉を返されたが…。教師の権利を使って最後まで拒否してしまった(笑)。

まだまだ作品を作る人間としても、教師としても未熟である。

詩作についてはこれで終わります。次回は在日朝鮮人被爆者の経験談、「苦難を生き抜いて」について書きたいと思います。

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