ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」②
「エーミールという少年」
「少年の日の思い出」といえば「エーミール」という少年である。生徒たちも作品の題名は覚えていなくても、この「エーミール」という少年についてはよく覚えている。彼は「ぼく」の隣に住んでいる先生の息子で、「あらゆる点で、模範少年」であった。彼は「ぼく」とは違って、自分の部屋を持ち、立派なチョウ集めの設備も持っていた。蝶の羽を直す技術まで持っていた。「ぼく」が勝てるものなど何もなかった。
「エーミール」は、あくまで「ぼく」からの視点でしか語られないため、その人物像ははっきりしているようで、はっきりしていない。「ぼく」が彼を「ねたみ嘆賞しながら、彼を憎んでいた」という部分でもわかるように、「ぼく」のコンプレックスを裏返したような人物である。「エーミール」も10才そこらの少年なのだから、当然、欠点はあったであろうし、彼なりの悩みや不安を抱えていたはずだ。しかし「ぼく」にはそれを見つけることができなかった。
私の小学校の同級生にも、頭がよく、運動もできる少年がいた。母親に「どうしてあの子は頭も良くて、運動もできるの?」と尋ねたことをよく覚えている。ちょうど「ぼく」と同い年ぐらいの時だったと思う。母親は「あの子に出来なくて、(私)に出来ることがあるんだよ。」と言っていたが、いまいちピンと来なかった。そうだろうか、という疑問が残ったのを覚えている。大人になった今なら、そもそも比べるものではないし、彼にも悩みや、コンプレックスがあったであろうことはよくわかる。しかし当時の私には、彼が何でもできる完全無欠の少年に見えていた。
「ぼく」の持つ感情は、最初は誰もが経験したことのある、単純なものだったと思う。他人と自分を比べるのは、自分を客観視する第一歩であり、大事な成長過程として当たり前のことだ。そして自分よりわかりやすく優れた者に対して、ねたみ、それと同時に認められたいという欲求を持つ。「ぼく」がめずらしい「コムラサキ」を見つけた時、「エーミール」にだけは見せようと、思い立つのも、彼に認められたい、称賛してほしい、という思いがあったからだろう。しかし期待した称賛は得ることができず、逆にプライドを傷つけられてしまう。
ここで反対に「エーミール」という少年に対して掘り下げてみる。
「エーミール」は最初から「ぼく」を対等と見ていない。だから素直に「コムラサキ」を称賛せず欠点を指摘する。これは「ぼく」とは関係なく「エーミール」の生まれや育ち方にその原因があると思う。
彼は「先生の子供」である。当時の「先生」がどのような存在だったかはわからないが、間違いなく現代の日本よりは尊敬された権威ある存在だっただろう。そんな先生の息子として生まれた「エーミール」は、親からの期待、周りからの期待も高かったことが予想される。彼は、裕福で自分の部屋や、収集道具も買い与えられていたが、同級生から完璧に見られるぐらいには、厳格な家庭で厳しくしつけられたのではないだろうか。きっと、昼食の時間も守らずにチョウの採集に夢中になれる「ぼく」より、彼に与えられた自由は少なかっただろう。「エーミール」の「収集は小さくて貧弱だった」と描写されているのは、あまり、自らチョウの採集に出かけられる時間が得られなかったからではないだろうか。
彼がこのことに対して、どのように感じていたかは定かではない。自分より自由な「ぼく」に対する嫉妬心があったかもしれない。私は、「エーミール」は自由でない分、「ぼく」より自分の能力が上だ、と自負していたのではないのだろうか、と思う。「ぼく」がチョウ採集に夢中になっている間、「エーミール」は勉強をしていることもあっただろう。だから「ぼく」より成績が優秀だ。「ぼく」より教師たちからも怒られない。「ぼく」よりチョウ採集の技術も持っている。当たり前だ。と、いう考えを持っていたと思う。常に自分が「ぼく」より上であることで、先生の息子としてのプライドを保ち、自分より自由な「ぼく」への嫉妬心を抑え込んでいたと思われる。
「ぼく」が珍しい「コムラサキ」を見つけられたのは、採集の時間がたっぷり与えられ、なによりも情熱をかたむけることを周りから許されていたからだ。それが制限されている「エーミール」に、「ぼく」は無邪気に「コムラサキ」を手に入れたことを自慢した。
ここで「エーミール」が「ぼく」を素直に褒め、羨ましがり、「ぼく」が自分より優れている、もしくは対等だと認めることは、自分の生活様式や、プライドを根っこから否定することになる。
だから「エーミール」は「ぼく」の「コムラサキ」をこっぴどく批評するのである。同じようにチョウ採集を趣味に持つ同級生としてではなく、「先生の息子」として、「批評家」として欠点を指摘する。
「少年」の年齢を考えると、「エーミール」が「ぼく」を下に見ていたのが、プライドの保持や、嫉妬心であったと、本人が気づいているとは考えにくい。「ぼく」を下に見ている自覚はあっただろうが、彼に対する言動は無意識下で行われたと考えるのが妥当だろう。しかし、逆に「ぼく」はあからさまに「エーミール」を「妬んでいた」ことが描かれている。この差は何だろう。
人間に上下関係はなく皆が平等である。というよく聞く道徳の話が、どの社会にも通じないことは百も承知である。(教師として、平等の考えが大事なことだと言うこと自体は正しいと思うが。)クラスの中にも上下関係(まではいかなくても)は成り立つ。誰かが意識的に作るよりも前に勝手に出来上がっている方が多い。
そこで大抵、「上」とみなされるのは、勉強ができる、運動ができる、明るく自分の意見を堂々と言える、クラス委員などに積極的な生徒たちだ。しかし、意外とそういう子たちの方が、自信のない子が多かったりする。そして、上の子たちに嫉妬している生徒の方が図太い性格だったりもする。
こう見ると「学校制度」がその「上下」を作っているのではないか、と思う。勉強やスポーツは、点数などでわかりやすく評価が得られる。明るい子たち、主張が強い子たちは、クラスの中では重宝されやすい。そういった「大人」や「教育制度」の評価が、そのまま生徒たち同士の評価へと繋がっていく。そこに評価される「エーミール」は優秀で、評価を彼よりも得られない「ぼく」は、彼より劣っている。それは「ぼく」にも目に見えてわかる。だから「ぼく」は「エーミール」に嫉妬心を持っていることを自覚している。
しかし、「エーミール」の自由への憧れは抑圧されている。彼は「先生の息子」として、親から見ても、周りから見ても正しい生活を送っている。そして、その結果、十分に評価を得てきたのだ。だから「エーミール」は自分が「ぼく」に嫉妬していることには気づかないし、上からものを言うことも当然だと思っている。
本人が気づいていないので、当然「ぼく」も気づくはずがない。「ぼく」にとって「エーミール」は、「非の打ち所がないという悪徳を持っていた」少年でしかない。彼らが自分も含め、お互いの心情を理解するにはまだあまりにも幼い。
そして「ぼく」が、大人となって思い出を語っているのだが、どうやら彼は大人になってもまだ「エーミール」を理解しようとしていないように思う。彼らの間で起こった例の「事件」の衝撃があまりにも大きすぎたせいであろう。前の記事でも指摘したように、「エーミール」に関連する一連のことが大きな傷になっていて、「ぼく」はそれを触れたくもない記憶として心の底にそのままの形でしまいこんでしまった。他人に話すのもこれが初めてである。彼が当時の「エーミール」と自分について、客観的に見ることができるのは、やはりこの思い出を話した後である。
また更新の期間が空いてしまいました。「エーミール」がこの後、どんな人生を送ったのか、当時の時代背景も知ってから読むと、また色々深められそうです。次回は例のヤママユガ事件について、考えていきたいと思います。
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