木下順二「夕鶴」③
「つう」=「愛」に対する憧れ
前回の記事で、この作品が「愛と欲」を持つ人間を描いた作品であり、その「欲」に対する「つう」の怒りは観客全員に向けられたものだ、と書いた。
今回は「愛」について書こうと思う。登場人物たちは「欲」のある人間だが、条件つきではあるが、「つう」と「愛」を共有することができる。物語の序盤。「つう」が「与ひょう」や「子どもたち」と遊ぶ場面は、愛にあふれた幸せそのものの世界を描いている。彼らは最初から「つう」の言葉が理解できる。同じ人間でも「惣ど」と「運ず」には通じないのに、彼らは言葉を理解できる。
この違いを見ると、まず「子どもたち」はまだ幼いゆえに「欲を知らない」存在として描かれている。いわゆる純粋な存在で、歌や遊びのことしか話さない。次に「与ひょう」はというと、彼は実年齢よりもかなり純粋に描かれている。「子どもたち」と一緒に遊び、歌を歌う様子は「大人」としてではなく、同じ水準の友達として描かれている。また、「惣ど」「運ず」に「ばか」として評されているのを見ると、彼はだいぶ精神年齢が低いのだろう。つまり、「与ひょう」はいわゆる一般的な大人の「人間」からは疎外された存在だった。
けれども、「つう」の登場や、「運ず」との交流によって「与ひょう」は変わっていく。
「急にええ女房をもろてしあわせなやつだ。近ごろは炉端で寝てばかりおるわ。」「ばかはばかなりにたいした働きもんだったがのう。」「あのばかの与ひょうが近ごろあだいぶん欲がついてきて、金のことならけっこう話がわかるちゅうでねえかけ。」という「惣ど」と「運ず」の会話があるように、「与ひょう」は純粋な人間から、欲を知り、怠けることを知る「普通の人間」へと変わっていった。「与ひょう」の無欲、純粋さに惹かれた「つう」の存在が彼を変えてしまったのは皮肉な話だ。
「つう」の責任についてもう少し言及するなら、彼女は変わっていく「与ひょう」を引き留める手段として「布」を利用することを決意する。「ほかにあんたを引きとめる手だてはなくなってしまった。……布を織っておかねを……そうしなければ……そうしなければあんたはもうあたしのそばにいてくれないのね?」
このように、「愛」によって結びつけていた二人の「絆」だったのに、「つう」はその「愛」を「布」で繋ごうとしてしまう。ここで「つう」の「純粋な愛」は形を変える。物で人の気持ちをつなぎとめようとしたため、結局「布」がないと続けられない関係に二人を追いやってしまった。「与ひょう」が約束を破る、ことで終わる二人の関係だが、ここで「与ひょう」が見なかったところで、また欲が出て「布」をほしがるであろう「与ひょう」との関係は長続きしなかったであろう。
この作品は徹底して「人間とは愛と欲望、どちらも持ちあわせた存在」であることを書いている。そもそも「愛」しか知らない「つう」は異質であり、通じ合えないものだ。それは最初から「つう」とその他の登場人物の台詞にはっきりと表れている。「つう」は常に標準語を使うが、その方の登場人物たちはより人間らしい「方言」を使う。「つう」の神聖さとは違って、生きた人間の生活感がする「方言」を使う。これは「つう」と心を通わせている「子どもたち」も同じだ。「子どもたち」は今こそ「欲」を知らないが、大人になるにつれ「欲」を知っていく。それは防ぎようがない。だから、人間ではない「つう」とはしっかり区別されて描かれている。
この作品の終わり方も象徴的で主題がよく表れている。飛んでいく鶴を追いかけて走っていく「子どもたち」。走ることはなくても目で追いかける「与ひょう」と「運ず」。「子どもたち」は「つう」と一緒に飛ぶことはできない。「愛」だけの世界で生きていくことはできない。けれども「子どもたち」自身はそのことに気づいていない。ただ今は純粋に駆けているだけだ。大人たちも飛んでいく鶴を見上げる。「愛だけの世界」に住むことはできなくても、それに憧れ、それを尊いものとして、夢を見て、理想を描くことはできるのではないだろうか。飛べなくても空に憧れを抱くように、純粋に「愛」を信じるのも、これもまた「人間」の性分なのだと思う。だから「与ひょうは(惣どにとられそうになる布を)無意識のうちに離さない」。「欲」だけが人間の全てではないからである。
しかし、最後まで「欲」の側にいる「惣ど」も、これまた「人間」の本性だ。彼は「与ひょう」の手にある布を金儲けのために取ろうとする。Youtubeにあがっているオペラの方でもわかりやすい演出がされている。「つう」の飛んで行った空に手を伸ばす「与ひょう」と、落ちた布に向けて手を下げる「惣ど」。この相反する構図で幕が下がる。愛と欲は常に私達の中にあって、その人がどちらを選択するかによって変わるのだろう。「欲」を否定するのではなく、存在するものとして、それでも「愛」に憧れ手を伸ばす。この重要性を上手く生徒に伝えたいと思う。
さて、とある生徒の家庭訪問に行けば、この「夕鶴」が家族の中で話題になったようで、このあと「与ひょう」は「つう」が命がけで織った布をどうしたのか、で議論が行われたらしい。親たちは「お金に困ったら絶対に売る。」と主張したそうで、つい笑って納得してしまった。ちなみにその生徒は「これだけは売らない」という意見だったようだが……。授業中ではないが、生徒たちにも聞いてみると、「最初は大事にしているけどそのうち売った」という意見が多いようだった。確かに、「つう」のあの必死の訴えを聞くと、売らない、と信じたいが、お金に困って売る「与ひょう」も想像できるのが、私達人間の弱いところで、本性なのだろう。このディベートは次回教えるときには、ちゃんと授業でやりたいな、と思う。様々な意見が出て面白そうだ。
「夕鶴」はこれにて終わります。日にちが空いてしまいましたが、お付き合いありがとうございました。次は「俳句」について書きたいと思います!
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