「作者からのネタバレ」
「清兵衛と瓢箪」の冒頭部を少し長いが引用したい。
「これは清兵衛という子供と瓢箪との話である。この出来事以来清兵衛と瓢箪とは縁がきれてしまったが、間もなく清兵衛には瓢箪に代わる物ができた。それは絵を描くことで、彼はかつて瓢箪に熱中したように今はそれに熱中している。」
この冒頭部には、清兵衛が瓢箪に熱中していたこと、しかし、それがある出来事で縁が切れてしまったこと、そして、今は瓢箪の代わりに絵に熱中していること、が書かれている。「清兵衛という子供と瓢箪の話」と書いておきながら、この部分だけを読めばその関係が切れてしまうことが既に分かる。そして「絵」がその代わりになることも。
これはある種のネタバレである。話の最初から最後までを知っている作者だからこそ書ける話だ。メタ次元からいちいち作者が姿をのぞかせている。志賀直哉はなぜこの部分を書く必要があったのだろうか。省いても全く内容には差し支えない部分だ。むしろ時系列を追わせ、ドラマのように次の展開を期待させるためなら書かない方がむしろ良い。更に言うなら、本当に「清兵衛と瓢箪」の話なら、それこそ「絵」に続く必要はない。ここで考えたいのは、本当にこの作品は「清兵衛という子供と瓢箪の話」なのか、ということだ。
ここで最後の部分も見てみよう。引用する。
「……清兵衛は今、絵を描くことに熱中している。これができた時に彼にはもう教員を怨む心も、十あまりの愛瓢を玄能で割ってしまった父を怨む心もなくなっていた。
しかし彼の父はもうそろそろ彼の絵を描くことにもこごとを言い出してきた。」
冒頭で示されたとおり、瓢箪への熱い情熱をくじかれた清兵衛はその情熱を「絵」に移行させた。最後の部分でも「清兵衛と瓢箪」の話は終わったのに、「絵」というジャンルに続くことが強調される。授業では、この続きを生徒たちに想像させて書かせる。どんなシーンが想像できるか、誰がどんな行動を取るのか、思いつくままに書かせてみる。
これは毎回なかなか面白い結果が出る。清兵衛が失った瓢箪を取り戻す話を書く生徒、父親への復讐を誓う話を書く生徒、なんと父と清兵衛は実は血が繋がっていなかった、と飛躍させる生徒もいる。どれもがあり得る話で面白い。
しかし、このように書くのは想像力豊かな一部の生徒たちだ。大方の生徒は単純に「やはり、清兵衛は絵にも才能がある。けれども結局、父親は清兵衛の絵もやぶってしまう。」という大体似たような話を書く。清兵衛の父親は清兵衛が「絵を描くことにもこごとを言い出してきた」と、終わっているので「絵」に対しても「瓢箪」と同じように理解を示さないことが予想されるのは当然だ。また面白いのは絵が破られたら「次はダンスを始めた。」と続く生徒がいることだ。そして、結局それも父親の無理解のために失敗してしまうと続く。
この生徒たちの読み、そして物語を創り出す想像力は正しく素晴らしいと思う。実はこの作品は「清兵衛と瓢箪」というタイトルだが「清兵衛と瓢箪」の話ではない。なぜならこの作品は「瓢箪」が登場しなくても主題が成り立つからだ。「絵」でも「ダンス」でも、生徒にもっと近づけて「サッカー」、「漫画」、「ピアノ」等、なんでもよい。何にせよ、ある一つの物事に、どんなに情熱をかけて、天才的な才能があったとしても周りは理解しない。それが「天才」と周りの流行に流される「一般人」との間にできる壁であり、一つのことを極めようとする「天才」がゆえの孤独である。それがこの作品の大きな主題だからだ。
だから作者は「清兵衛と瓢箪」というタイトルをつけながらも、いちいち冒頭で、「作者」としてその姿を表し注釈をつける。この作品は「瓢箪」とどまらず「絵」にもつながることを最初から明言する。そのように二つの事物をはっきり提示することで、「瓢箪」も「絵」も一つの例に過ぎず、作品がより普遍的なテーマを内包していることをほのめかしている。
では、清兵衛はこの無理解という「孤独」を一体いつになれば解消できるのだろうか。父親が老衰し清兵衛を押さえつける力を失ったときだろうか。それとも清兵衛がより多くの人間とつながり社会性を身に付けた時だろうか。それとも清兵衛に本当の理解者が出来た時だろうか。
志賀直哉も父親から「小説なぞ書いてゐて将来どうするつもりだ」と言われた。事業や結婚の問題でも不仲であり続けた親子だったが、その後「和解」を果たす。清兵衛も今度こそ情熱を捨てなければ、父親にその才能を認められる日がきっと来るだろう。
「清兵衛と瓢箪」は今回で終わります。長文にお付き合いありがとうございました!
次回は壺井栄の「坂道」を少し批判的に読んでみたいと思います。
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