井上ひさし「ナイン」④
「西日がささなくなったグラウンド」
前回は「ナイン」の絆の根底に流れている、苦しい状況を自分たちの力で乗り越えた「誇り」の話をした。彼らは自分たちの力を誇り、それをこれからも信じて、輝かせる道を選んだ。それにはどんな「利益」も「合理性」も通用しない。「誇り」は一般的な価値観をつきつけて揺るがせるものではない。
「誇り」は生き方に繋がる。誇りを持って生きていくことは、その誇りを常に身を持って示すことである。「英夫君」が「正太郎」の(悪行をかばう)ために仕事をがんばり、「正ちゃんは僕たちのキャプテン」と言い続け生きていくことが、「ナイン」の「誇り」を今につなぐことになる。
最後、「わたし」は「英夫君」の気持ちを受け止めて、かつて決勝戦の舞台となったグラウンドへと赴く。そして、グラウンドの周りには、いつの間にか大きなビルが立ち並ぶようになり、ナインを苦しめた、あの日のような「西日がささなくなった」と、物語を終える。このラストには「わたし」=作者の悲しみが漂っている。
ビルが立ち並んでいるのは、高度経済成長期の波に乗り、新道通りが「都市化」したからだ。街の生活臭さはなくなり、「便利」で「効率化」され「快適な」都市へと変貌をとげた。それを作中で「なんだか脆い通りになった」と、「わたし」は述べている。
「都市」は意図的に「便利」で「快適」に作られるものだ。商店街よりイオンモールを人々が選ぶのは、「便利」で「快適」だからだ。一つの場所で様々な商品を買うことができるし、清潔で、商品の安心、安全も大手企業によって保障されている。ほしいものが売り切れることも、不良品がまざっているとも、ほとんどない。昭和を代表するサザエさんのOPテーマのように「お魚くわえたどら猫」なんてのも出てこない。ゴキブリや、ネズミの出現も許されない。「便利で快適」。それが都市の絶対条件である。
しかし、これは「ナイン」の経験とは真逆な環境だ。彼らは酷暑の中、苦しい思いに耐え抜いて、自分たちだけで試合をやりきった。そこに彼らの「誇り」が生まれたのだが、そもそも快適で安心を目的に作られた「都市」には「苦しい状況」というものが存在しない。当然、ゼロではないが、人が身体的に過酷な状況に置かれる確率は低い。
現代で「ナイン」のような試合が開かれれば、すぐに炎上するだろう(笑)。まず親が黙っていない(笑)。暑気あたりを起こした「監督」に批難がむけられるし、片方にだけ木陰のない球場にも批難が向く。そしてそもそもそんな暑い日に野球大会を開催した主催者に批難が向けられ、来年度からは中止か、時期を変えての開催になるだろう。
昭和の「根性論」を褒めるわけではないが、しかし、このように「苦しい状況」が消えると、人々の「誇り」はどこから生まれるのだろうか? 苦しい状況を自分たちの力で乗り越える経験がない人たちは、何に誇りを覚えるのだろうか?
「自己肯定感」という言葉が2015年くらいから流行り始めた気がする。自分の存在意義に悩み、自分という価値を見出せない人たちが社会問題となった。(そして、何でもとにかく褒める教育が優勢になった)
「自己肯定感」や自信は、何かをやりきった時に得られるものだ。何かしら困難を乗り越え、やり切った時に、「ああ、自分にこんな力があるのか!」と知り、それが自信へとつながっていく。しかし、現代日本では、自分で「何かを生み出す」環境が全くといって良いほど無い。
この生活の変化について、二つ例をあげたい。
一つは、アメリカのSF作家、レイ・ブラッドベリの「草原」という短編だ。近未来を描いたこの短編では、居住している「家」が生活の全てを行ってくれる。子どもたちを楽しませるものは、念じるだけで部屋の画面に出てくる。家事も全て自動で行ってくれる。調味料がほしいと言えばすぐにテーブルに用意される。寝る時も最適な寝床を提供してくれる。とても「楽」で「居心地のよい」暮らしのはずであった。しかし、母親の様子はいつも不安そうである。彼女は言う、「自分はこの家には要らない人間だって気がするの」と。自分は全て完璧に自動で家事や子守りをしてくれる「家」に勝てない、と。そしてその自覚の通り、子どもたちは「母」を軽視し、画面に映るアフリカの映像に夢中である。
確かに、何もすることがないのだから、何もできなくて当たり前である。そして、全自動化の機械に負ける人間が、どこで「自己肯定感」を育てられるだろうか。そして、何もしていない彼女が「私の家」「私の家族」に誇りに持てるだろうか。
この作品を1970年代に執筆しているレイ・ブラッドベリの先見の明に驚かされる。AIを中高生が当たり前に使うようになり、悩みを友や親に相談せず、「チャッピー」に相談する生徒たちが増えた。このままでは、親や学校より「スマホ」が大事という生徒が出てくるだろう。「楽」で「便利」なのは良い部分もあるが、それは同時に人間の自信も失わせる。
二つ目の例として、そんな現状と真逆を行くYoutuberを紹介しよう。その名も「週末縄文人」。サラリーマンの二人が週末に山にこもり、縄文人のように一から文明を築いて行くという企画を行っている。毎日新聞の記事で、彼らのことを知った。さっそく観にいくと、マッチも、ライターも使わず、火を自ら起こすところから始まっていた。試行錯誤を繰り返し、なんと1か月以上の歳月を費やして、火を起こすことに成功していた。成功した瞬間、二人は飛び跳ねて大喜び、そしてコメントにも「とても感動した」の言葉が並んでいた。
彼等はインタビューでこのような話をしていた。「土器を作り、藁を編んでいると、頭が驚くくらい冴えてくる。達成感や自己肯定感は手に宿るのだと思う」「失敗を重ねた分、出来たときの感動が大きい」と。久しぶりにチャンネルを覗くと、狩猟を始め「死生観」について考えはじめたとあった。面白そうなのでまた観ていきたい。
さて、井上ひさしが「西日がささなくなった」と嘆いた時から、時代はさらに進み、日本の生活はより便利で快適になった。しかし、同じように「不便益」の研究もなされている。「不便」の中にこそ「有益」なものがあるという考え方だ。地道に手を動かすこと。失敗をくりかえしながら試行錯誤していくこと。現代の生活で私たちが失ったものの価値を認め、取り戻していくことは重要だ。
また、「ナイン」の時代と比べると、現代は「個人主義」がより強くなったのもあげられるだろう。「正太郎」率いるメンバーはチームで「英夫」と「常雄」に影を作った。彼等も苦しかったはずだ。それでも完投を目指すピッチャーのため、暑さで倒れそうなメンバーのため、自分たちが代わりに日に焼かれ、影を作った。これを「自己犠牲」という言葉で表すこともできるだろう。けれども、これは「僕たちナイン」のため、である。「他者」だけではなく「自己」も含めた「僕たちナインのため」である。「ナイン」の中の、ある「他者」が辛い時、それを助けるのは「ナイン」のためになる。それはその「ナイン」に含まれる「自己」のためでもある。そして、その経験を通して「ナインの結束力」は高まっていくのである。だから「英夫」も「常雄」も「正太郎」をかばし、信じる。彼らにとってお互いは「他者」であるが、そのまえに一つのチーム、「ナイン」なのである。
この「集団」「チーム」という感覚は、現代では非常に薄れている。クラスや部活動といった集団生活でも「自分」を優先させる風潮は年々強まっている。上でも述べたように、過酷な環境に慣れておらず、助けあって乗り越えるよりも、「困難」を生じさせた原因を批難するのが「正義」と思う傾向にある。(これは生徒だけでなく親の世代にも多い)我慢が良いとは思わないが、「学校」という集団生活の枠組みが大きく崩れようとしていて、非常に不安である。
何かと言いつつも、私自信もこの快適さに甘えながら日々を生きている。それでも、自分なりに作品を読解し、生徒たちに伝えることや、つたない文章ではあるが、このように自分の考えや作品への愛を語ることは、自分の誇りに繋がっていると思う。小さな誇りではあるが、これからも守っていきたい。
今年は一か月に1回はブログを更新する!と決意しましたが、すでに2月の更新ができませんでした(笑)。がんばります……。「ナイン」は終わります。つぎは「近代俳句」について少しだけ書きたいと思います。

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